愛されるものはどこにいる?

ブログなるものを書いてみたくなったので、やる気があったらこれからもnoteに綴っていきます。目指せチャンネル登録者100万人。


今日微積の授業を受ける気が起きず、何気なくyoutubeを開いて音楽をあさっていると、ピノキオピーの「愛されなくても君がいる」にたどり着いた。この曲は初音ミク自身が語っているような調子で、受け手(ボカロを聴いている人々)に自らの思いを伝えるという歌である。特に印象的だった2番では、最近ボカロの勢いが落ちている=人が離れている現状でも、君さえいれば初音ミクとして歌い、存在するという想いが表されている。ピノキオピー特有の電子音、物寂しいがポジティブな歌詞、それに即したMVの初音ミクの表情等々、皆さんも一度鑑賞して頂きたい。というか、ここまで読み進めたらブラウザバックして今すぐyoutubeを開くか↓の動画の再生ボタンと高評価を押してくださいお願いします何でもはしないです。(話はまだ続きます)


そんな素晴らしいでは形容しがたい曲であるのだが、気になった歌詞が一か所あった。

「愛されなくてもいいよ 惑星ですらない デブリの海で」

最初聴いたときに、私はパッと砂の惑星が浮かんだ。色々調べると、どうやらピノキオピーさんも、それを意識して作詞したらしい。

考察厨のような言動で申し訳ないが、惑星=大きなコミュニティではないのかという仮説が生まれた。すなわち、初音ミクというコンテンツが、惑星くらい大きな規模に発展し、それが様々なコミュニティを生み出した、ということである。とすれば、砂の惑星というのは、コミュニティから人が離れ、荒廃していくという意味である。実際、ボカロより勢いが良いコンテンツはいくらでもある。に〇さ〇じとかなんとかの刃とか。

ならば、惑星ですらないデブリの海とは?

この後の歌詞には「それぞれ都合の良い世界を見ていた」とある。つまり皆が異なる思いを抱いているということである。思うに、デブリの海とは人々の心で、ちっぽけなデブリの海だとしても、皆が思いを向けるならば、初音ミクが存在できるのではないか、なーんて考察を考えてしまった。公のコミュニティが廃れて存在が多くの人に忘れられたとしても、人の心の中にそのコンテンツが刻まれ、何かの機会にふと思い出す。それだけでもコンテンツとしての魅力は人々に伝えられている。実際、惑星どころかデブリにもならないものは数多くあるのだから。

ナユタン星人が発表した「リバースユニバース」の歌詞にも、「無数の愛で惑星に雨は降るから」とある。たとえ消えゆくものだとしても、人々が目を向ければ、デブリは集まって惑星となり、やがて繁栄していく。そんな考え方のほうが好きだ。最後まであがき続けよう。(といっても私にやれることは曲を聴くことしかないのだが……)


というわけで、ありがとうございました。今度ボカロ歌いたいのでカラオケ行きましょう誰か。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?