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100%支持する、は、100%ない。

大好きなナニカがあって、それが多面性を持ったナニカである以上、全面支持をするとは言い切れないな、という話。

にんじんは生でボリボリ食べるのは好きだけど、グラッセは苦手だ。とか。初期のアルバムは好きだけど今はそこまで心踊らないな。とか。いやいや今が好きだなという逆もあったり。そういったモノの対象が人間である場合が、一番「100%」と言い切れないかもしれない。

全体を通して見た場合、やっぱり好きだな。となったり、根底にあるキラリとしたナニカが見える(気がする)場合、やっぱり好きで良かったな、なんて思うこともある。でもどうしても嫌な部分、苦手な部分がぬぐえないこともある。

別な話になるけど、「方向性」という言葉はとても便利で優しい公約数で、一緒なら幸せだね、違うなら認め合おうね、と、どう転んでもどちらかがあまり傷付かないように泳げる気がしていて。

だから、方向性は一緒な気がしていたのに違ったからがっかり。というのは対象のモノの全体をまだ見れていない気がしてさ。方向性が違うことがわかって支持率が50%以下に下がったからもう私の世界には必要ない、とはならない気がしてさ。

だんだん嫌になる、は最初から全体を見ていなかった。
だんだん好きになる、は「キラリ」が見えていた。
そんな気がする。それでも100%支持、はない。(あくまでも私の場合)
長く付き合っているヤツのことは大好きだけど、多分嫌な部分はある。多分と言うくらい嫌な部分を認識していないからしあわせだけど、絶対100%ではないと思うんだ。限りなく100%に近い支持ができるのは、嫌な部分も含めてヤツだからという思考ができているからだけで、そんなのはお互い様で当たり前だと思っている。

なにを言いたいかというと、
誰かが支持したモノを判断して、
その誰かの方向性は決められない。

みんな自由だから縛るな、偏るな。
縛られてそう、偏ってそう、と誰かに思ってる自分が一番がんじがらめかもしれないよね。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。。。

なんて考える出来事があった月曜日。
だらだらたれながし。

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