生きるとは。逝くとは。

先日、義父が身罷りました。

穏やかな安らかな表情で眠るように逝ったという義父の話しを聞き、まずは心から安堵の気持ちが広がった。
そして葬儀に参列出来ないとしても敬意と敬慕をもって義父を見送りたいと思った。


ありがとう。
私の義父でいてくれて…
私の子供たちの祖父でいてくれて…
ありがとうございます。
厳しく言葉数の少ない貴方の大きな優しさをたくさん知ることが出来て幸せです。
どうかどうかゆっくりと安らかに私たちを見ていて下さい。
どうかどうかゆっくりと安らかに…。


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義父の思い出とともに
生き方とは?
逝き方とは?
を考えている。


生前、義父は糖尿病と癌を患い、その進行が進み余命宣告された。しかし、そこからの延命治療は一切しなかった。
糖尿病の進行が進み、片方の膝から下を切断しても、なお大好きなお酒は辞めなかった。
全身転移が進み、痛みによる入退院を繰り返しながらも、約3年間生きながらえた。

まるで死をただ待ちながら生きる、いや生きると言えるのだろうか、、、過ごすという言葉の方が合っているのかもしれない。
私はそう思っていた。
どこかに何の力にもなれない申し訳なさと、義父に対するやりきれない気持ち、憐みのようなものを持っていたのだと思う。


義母はそんな義父の気持ちを慮り、わずかに許される量のお酒を毎日計り、好みのつまみを綺麗なお皿に丁寧に盛り付けていた。
冬は1人用の小鍋をこしらえ、冷めないように保温するプレートを一緒に買いに行ったこともあった。
夏は1人分のお刺身を皿の柄にこだわって並べていた。いいネタがあると聞けば自転車を走らせて買い物をしていた。
そして自分は残り物やお漬物だけで、義父が寝たあとで食べる事がほとんどだった。
義父のために生きている、そんな義母だった。彼女はどこまでもどこまでも義父を一番に考えて動く人だった。そう自分よりも、我が子よりも、なによりも義父だった。
そんな義母も老老介護を終え、世間様が少し落ち着いたら仙台に来たいと言っていた。一人旅。今はまだいつになるか分からないが、お迎え出来る時がきたら、精一杯もてなそうと考える。
これから義母は何を思って生きていくのだろう。残された者の中で捉え方はそれぞれであると言える。


寡黙で朴訥な義父だった。
そんな義父も我が家の3人の子供たちが顔を見せるとキラキラした笑顔をみせて、嬉しそうにニコニコしていた。
長男が生まれたあと一度みんなで遊びに行き、その後同居するまでは『もう少し大きくなったら新幹線に一人で乗って秋田においでな〜』ととても可愛がっていた。長男も懐いていて孫の中で自分だけが、じぃじとばぁばと3人でお泊まり旅行に行ったんだぁ〜と今でも自慢気に話している。片足がなくなってからも怖がることなくじぃじの側で一緒にTVをみたり、何か手伝ったりと秋田の実家に帰るといつでもじぃじの側にいたがる子だった。
娘が生まれた時は、男しかいない家でやっと義父にも義母にも女の子を抱いて貰えると何より私が嬉しかった。一升餅を担がせた時も「頑張れ〜頑張れ〜、ほれここまでおいで〜、ここまでござれ〜」と何度も声をかけてくれた。そんな風にどこまでもどこまでも我が家の姫を甘やかすニコニコとした義父と義母がまた可愛く嬉しかった。娘の名をちゃん付けで呼ぶ義父の笑顔が宝物に呼びかけているようで、その愛おしさがとても幸せだった。
次男は我が家で唯一の秋田生まれ。妊娠中から気遣って貰い、産後すぐの産湯をキッチンの流しでやり義父にも義母にもそばでみて貰えた。2人とも産まれたばかりのあの子を見て目を細め「お〜お〜気持ち良さそうだ、めんこ〜なぁ、危なっかしいちゃなぁ〜、ちいせえなぁ〜」と幸せそうだった。小学生に上がり実際にランドセル姿を見せることが叶わなかったが、義父と話すときにじぃじ〜あのね〜と脈絡のない話にゆっくりと相槌とともに寄り添ってくれていた。

あの子たちは義父がつないでくれた命そのもの。義父が過ごした命の中にあの子たちとの時間があることで、嫁として何も出来なかった私は少し報われるのかもしれない。


義父は職人だった。
多くを語らず、想いを告げず、古き良き時代と言われた頃を彷彿とさせる…そんな人だった。
夫はそんな父に対し長年反発心を抱いていた。
情報弱者…田舎住まいでインターネットなどなどやらない義父にしてみれば、物を与えることが情報を与えることだったのかもしれない。しかし夫は物よりも情報が欲しかったとよく話していた。情報を知らない事は今でも夫の怯えとなっているのかもしれない。
親の目線になれば、自分の生きた人生の中の失敗点を、我が子には味合わせたくない。それもまた親心なのだろう。
物のない時代を必死に生き抜いた義父の世代からすれば、より良い物を買い与えることを良きとし、物質を通して正確な知識を得る事を正しいとしていたのかもしれない。
そして、それを疑うことなく子である夫に伝えていたのかもしれぬ。
これが義父なりの愛だった。そう分かるのは主人も私も親という立場にさせてもらえることで初めて染み渡ったのだろう。

ではこれからの時代は…
有り余る情報の中で夫と私は我が子に何を、どんな風に知らせていくのか。
そして、我が子の世代がほんに欲するものは何なのだろうか。
そう思えるのも義父が生きた証である。
続きゆく命の繋がりをもって私たちはそれを知り、形を変えて伝えゆく。


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肉体を持つということは時間を有限にする。その有限が故に儚さがあり、その儚さを人は美しいと感じるのかもしれない。
本来なら区切りのない時の流れに、過去・現在・未来と名前を付けて軸を設けることで、人は時の流れを認識した。
それは『流れゆく時の中において命の時は有限である』いう儚さを知っていたからかもしれない。

しかし義父は思い出や記憶として多くの人の心に残り、存在し続ける。生きた事実だけは変わる事なく在り続ける。
それは、例え過去を語るとしても今この瞬間の現在であり、また訪れるはずのない未来へ想いを馳せる事も今この瞬間の出来事に他ならない。
弔いとは、故人の時を時間軸から超越させ、有限なものから終わりのないものに戻しゆくものなのかもしれない。


義父の生き方は、
義父そのものであり、繋がりゆく人たちの中に多くの影響を与えてきた。

義父の逝き方もまた、
義父そのものであり、繋がりあった人たちにとって多くの想いを芽生えさせた。


生きるとは…
逝くとは…
『そのもの』を『そのまま』としていくこと
なのかもしれない。


最期に。
お義父さん、ありがとう。
また逢いましょう。

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