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改訳「ドゥイーノでの悲歌」



ドゥイーノでの悲歌 


第一の悲歌


ああどれほどこの俺が叫んだとてどんな天使が
至高の天から聞くか。天使のひとりがヒエラルキア
から脱け不意にこの俺を抱こうがより烈しいものに
焼かれて俺は滅するだろう。美は恐怖すべきものの
創りに外ならぬから。命からがらそれに堪え、
すばらしいとか言ったって、そんなのは美の滅力を
取るに足らぬとしているだけだ。天使はみな怖ろしい。
かくて俺はおのれを抑え、暗い嗚咽を呑んだのだ、
ほとばしり出ようとする「来てくれ」って声といっしょに。
ああ、なら俺たちはなにを頼める? 天使など嫌だ、
人間も嫌、動物の賢しらな者たちはみな、
人類が世界を説明しながらもそこにしっかりと
根をおろしていないことをよくよく見抜いているものだ。
だったら俺らに残されたものは、ひょっとしたら、
日々何気なく見るような丘のなぞえの樹の一本、
昨日歩いたあの道や、犬のようにじゃれてきて
身から離れぬ性癖か。そんなものなら俺たちと
ともに居て、充たされていやがる。ああ、おまけに夜がある。
世界の空間をはらむ風が貌を削ぐ夜が。
――切なく待ち焦がれられて、やわらかな幻滅をくれ、
苦しく立ちはだかる夜が訪れぬ者があるだろうか。
愛しあう者同士なら楽に堪えられるのかな。
抱きあうことでおたがいの運命を隠しあいながら。
未だ解らぬのか、おまえは。その腕で抱きしめた虚無を
この空間に足してみな。そうすれば、おそらく鳥なら、
そのぶん空が広げられ、過ごしやすくなったって、
いっそう安らかになったはばたきで、感じるはずさ。

そうだ、おまえを頼みにし、春は毎年来てくれた、
あまたの星々も感じとられるのを求めていた、
過去なす日々の大波が寄せてはかえしたこともある、
道をゆくとき、開いていた窓からヴァイオリンの音が
その身をゆだねてきてくれた。あれらは託していたのだぞ。
しかし託されたことをおまえは果たして遂げたのか。
むなしい期待で相変らず心を散らしていただけか。
見るもの聞くものすべてあたらしい恋のお告げかと。
おまえの心に出入りして幅を利かすこともある
異常な考えが夜は時には留まりさえするのに、
そのような恋をどこにかくまっておくつもりなのか。
それでも憧れやまぬなら、愛に生きた女を歌え。
その心意気は名高くもいまだに不滅には遠い。
満ちたりた女たちよりもはるかに愛した彼女らは、
棄てられはしたものの、妬ましいほどの、ありかただ。
褒めに誉めても頌めきれぬその頌め歌をくりかえせ。
没落さえもみずからが世に永らえるねたとなり、
最後の誕生となりもする、身持ちよき英雄を思え。
それにひきかえ、愛に生き、塵となる彼女らはどうだ、
自然は彼女らをつくり、それで精根尽きたかに、
もう二度と彼女らのごとき愛をつくり得ぬらしい。
おまえはガースパラ・スタムパをいつかしみじみ歌ったか。
だれか女が、恋人に去られて、もしやじぶんもと、
かの高き範例にふれ、そうなろうと決するほどに。
いまこそ古き苦しみをわれらが実りとしなくては。
愛しながらも、愛している者からおのれを引き離し、
おののきつつ、そのことに、堪えぬくべき、時ではないか。
張りつめる弦に堪えぬいて力を集めた弓の矢が
矢以上のものとなるように。停滞はいずこにもあらず。

声、声がする、聴け、心、せめてはかつて聖者らが
聴いたような、聴きかたで。大いなる呼び声により、
聖人たちは大地から持ちあげられていたのだった。
ああ、だが、かれらはひたすらに跪き、気づかなかった。
それくらい聴き入っていた。神の召し声にまさか
おまえが堪えうるはずはない。けれども風かと吹き寄せる
静やかさからつくられた絶えなきあの消息を聴け。
あれこそおまえへの便り、かの若き死者たちからの。
以前ローマやナーポリで教会堂に入ったとき、
静かにかれらの運命が語りかけてきただろう。
サンタ・マリア・フォルモーサ寺院でもさっきそうだったが、
死者の碑銘がおごそかに託してきたのじゃなかったか。
なにを望まれていたのか。かれらの霊の、純粋な
働きを時としてすこし妨げてしまうこともある
かれらの悲運の外観をひそかに拭うことかな。

ああそうだな、地上にもういないなんて不思議だよ、
やっと生にも慣れたのに、その慣れをもはやしないとは。
薔薇その他希望を騙る色々なものものに、人が
みずからの未来に向かい、意味づけをもうしないなんて。
とうとうついにこまやかな配慮する手に労わられず、
壊れたおもちゃのようにその名前すら棄て去るなんて。
たがいに関りあいながら結束していたものどもが、
望むことをもはやせず、まるで木の葉さながらに、
あんなに、てんでばらばらに飛び散るのを見送るなんて。
おまけに死んでもそれまでの遅れを取り戻すとかいう
つとめがぎっしりとあって、徐々に多少の永遠を
感じ取るのが、死者たちだ。――しかしあまりに截然と
区別をするということは生者の常なる過ちだ。
言い伝えるところによると、天使たちというものは、
生者のあいだにいるものか、死者のあいだにいるものか、
しばしば気づかぬものらしい。永遠の流れは生と
死とのあいだをつらぬいて、あらゆる年代をさらい、
それらすべてをみずからの轟音で等しうする。

ようするに、夭折者にも用無しになる、俺たちだ、
育つにつれて赤んぼがほっと母から離れる様、
死者も静かにこの世から遠ざかってゆくものさ。
けど、俺らには大それた秘儀なんてものが、必要だ、
哀悼をするということでしばしばよき前進をする
俺らのほうこそ、死者なしで、存るってことが、できようか?
あの古の伝説は虚しいものであるだろうか。
リノスの死を哀しむ者の、悲嘆が最初の音楽と
なって、ほとばしり、涸れた凝固の奥までしみいった。
殆ど神々にちかいこの青年が突如とし、
去り、空間ははじめ愕然として、かくて、
そこに生じた空隙は、やがて搖れ動いて、現在、
俺たちの魂をいまだ、奪い、励まし、慰める、
あの玄妙な調【しらべ】へとその震動は移行した。

(中断)



参考文献*岩波文庫版手塚富雄訳『ドゥイノ悲歌』
viawwalnuts叢書古井由吉訳(改行 平出隆)「ドゥイノ・エレギー」


出題 2017年7月24日(月) 13:12


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