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合理的配慮のことを知って。配慮される側と配慮する側と。思うことを書いてみる。

合理的配慮というのがあるらしい。
障害者に対して調整をしたりすることのようだが
どう対話して折り合いをつけていくものなのだろう。

私は精神障碍者ではあるものの
多大な配慮を受けて生活させてもらっている。

具体的には書類の手続きなどを
母親が代行してやってくれたり
金銭の管理をしてもらったり。

比較的恵まれた環境にあって
配慮してくれ!って思うようなことはないが
適切に支援を受けられない人もいるだろう。

障害者を助けられるのは
健康的でまともな人でないと難しいのでは?と
私なんかは思う。

自助グループなんかは相互補助というかな。
当事者同士で助け合いになるんだけど
そこで配慮っていう言葉もよく出てくるけど
どこまで配慮すればいいのか?っていうのは

自分が負担にならない程度にってことだとすると
出来ることなんてほぼないんじゃないかな。

自分が配慮して欲しい側にいる人たちの集まりで
折り合いつけるんだとすると
どこが落としどころになるのか分からないしね。

私は負担にならない程度に
役割というか雑務はこなしているんだけど
その程度くらいしか出来ることはなさそう。

個人的な関わりは負担が大きい。
それは避けたいものではある。

役割をするとなると
配慮を求められる側にはなるのだけど
それをする機会もあっていいし
それは自分を鍛錬出来るので
自分にとってはいいかなと感じてる。

する側とされる側と両方があると
いいんだろうなと思う、合理的配慮

配慮って言うと気を利かせて
思いやりを持って接するみたいなイメージもあるが
調整だからね、そこは違うんだなとは思った。

先回りしてやってあげちゃうとかも違うんだろうし
配慮してもらう側も
自分を知る必要があるのかもしれない。
こういう配慮をして欲しいと明確に伝えるというか。

テレビを見ながら感じてたけど
他の人が配慮をされているのをずるいと感じると。
エコひいきだとか。

みんな不満はあるのに
〇〇さんは障害だから特別待遇でみたいなことになると
確かに・・・平等性っていう意味では
難しい話にはなってくるのかもしれない。

健常者だって辛い人もいるだろうし
苦労も努力もして折り合い付けて生きてるわけで。
障害者だけが特別なわけでもないし。

だけど障害者だと認定を受けるってことは
やはり障害があるわけだから
健常者と同じではないのだとは思う。

それにしても・・・
発達障害と名乗る人が増えすぎた。
どこまで配慮は必要だろうか。

本人が配慮して欲しいと言ってくれたら
それは出来そうではあるけども
察してくれ!みたいなものは難しい。

私も発達障害と診断されたわけではないが
空気を読むとか察するっていうのは
苦手とする部分であり
言葉通りに受け取る性分でもあるから
嫌味とか回りくどいのは理解出来ない。

対話を重ねても理解が出来ないものはあるし
なんで?ってなることもある。

結局のところは同じ性分の
ストレートに物申すタイプとしか
最近関わってないような・・・

配慮がさほど必要にならない相手とばかり
交流をしてるってことは
相手が配慮してくれてるんだと思うので
感謝しなくちゃなとは思う。

生かされてるんだと思うと
なにかまだ出来ることはあるのかもしれない。
合理的配慮が何かはまだよく分からないけど
私なりにちょっと考えてみよう。




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