『資本主義と自由』を読みました。
1.はじめに
久しぶりの投稿になります。元々の予定では、新規投稿は『言語ゲームと第六感』という言語ゲームを日常に即して考えていく記事と『そこに代替愛があるだけ』というジャック・デリダの死を与えるという著作から責任について論じていく記事の2本を順次投稿していく予定だったのですが、思っていた以上にこの二つの執筆が難航しているため、急遽読書記録を復活させることにしました。というか、正確に言語化すると『投稿したい記事が沢山あった為にずっと後回しにしていた読書記録を再投稿することにした』なのですが。
2.資本主義の自由と共産主義の自由
まずひとつ考えなければいけないのは『自由』という言葉の多様性です。まぁ、これに関しては昔オウム真理教が人を殺すことを『魂を救済する』と言っていたというようなものと同じもので、私たちが考える『人に殺されない自由』という言葉が『人を殺す自由』という単語で簡単に覆される。と言った物と同じような考え方でもいいと思いますが、こんな物騒、不謹慎とも捉えられかねない例え話で何が言いたいのかと言いますと、資本主義社会で自由と褒賞され、不平等だと貶された概念は、共産主義社会で不平等だと貶され、自由だと褒賞される概念とは正反対である。という事実を示すためです。この辺りに関しての詳しい解説は次回『隷従への道』の読書感想で論じていきたいと思いますが、要するに私たちがすばらしいと感じる自由こそを共産主義が憎み規制していくという事実が確実に存在しているのです。例えば計画経済というのがその最も顕著な例でしょう。私たちの労働が管理され、給料は一律、そこにあるのは給料の平等、即ち給料の不平等からの自由であり、そこに存在しているのは個人としての権利ではなく、共産、つまり共に産出するものとしての自由だけであるということがどれほど恐ろしいものであるかということを理解できるものは少ないでしょうが、そのあたりに関しても次回に論じていきたいと思います。今回はその前提だけ知っていただいた上で、ここから論じるのは『そうではない自由』だということさえ分かってもらえれば嬉しいです。
3.二人三脚の競争
著者であるミルトン・フリードマンが推し進める自由は『競争経済』という自由です。あるいは『政府に依らない』自由と言い換えるべきでしょうか。高校の政治経済等でしか経済を知らない。という方であれば小さい政府という言葉が最も馴染み深いのかもしれませんが、今回はあくまで『資本主義と自由』という本をテーマに置いていますし、『小さい政府』という単語だけではあまりその意味が伝わりにくいと感じているのであくまで前者的な呼び方をしていきたいと思います。簡単に言えば競争経済というのは、経済に於いて複数の事業者がその事業に関して『競争を行う』というものです。
日常生活に置き換えてみると分かりやすいかもしれません。例えばスーパーで私たちは複数の商品を目にします。同じバナナでも色々な種類のものがあるかもしれません。その中でA社のバナナを選ぶとかB社のバナナを選ぶとか、そのように顧客を取り合う。という状態を競争と言います。あまり実感が湧きにくいかもしれませんが、そのようにして互いに鎬を削って競い合うことによって、私たちの元に届く商品というのはどんどん進化していきます。A社に負けないように更に安いバナナを作るだとか、ウチは更にそれよりも安くするという形で商品の価格がどんどん買いやすくなったり、ウチは値段では負けるかもしれないけれども品質では負けない。と言った具合に多様性が現れていくのも競争の中です。もしも何もしなくてもその商品を買う人が一定数いて、その一定数の買ってくれる人間さえいれば生活できるレベルなのであれば、商品というのは恐らく進歩していかないでしょう。彼らは確かに互いに利益を競い合うライバルに違いはありませんが、それと同時に互いの存在によって商品を、延いては人類を共に進化させる二人三脚の相方のような役割も果たしているのです。
3.安定か精鋭か
そのような競争経済が大多数を占めている現在の資本主義社会ですが、聖域の様に競争から守られている分野も存在しています。例えば学校というのはその内の一つです。私立学校は競争の中に放り出されているにもかかわらず、公立学校はそうではありません。それは競争社会の理念からすればおかしいのです。もしもそれを『貧困層を守るため』ならば一定の貧困層に学校に行くための資金を給付すれば良いのです。競争経済という物の性質上、そうすればそれらの『元』公立学校も、競争の波の中に揉まれ、公立時代よりももっと安く、あるいは最も質の高い授業を受けられる様になる。否、競争の中で生き残るために受けられる様にせざるを得ない筈なのです。そうなれば、元々その公立学校に通っていた生徒は国からの支給で同じ額で学校に通えるし、国側の支給額は減り、元々学校を運営する為に使っていた予算よりも少なくなる。あるいは同じ値段でも質が高くなるのであればその生徒は元々その公立学校で教育を受けたときよりもいい仕事に就くことができ、所得は増え、納税額も増えることで将来的に政府の財政も黒字化するのです。
この様にして、我々は、様々な制度を現代の最善策だと考えて、あるいは何も考えずに『こうやるのが当然』だと考えているのかもしれませんが、これらの聖域の全ては変化よりも安定を望む人間心理に基づいた怠惰なのかもしれません。
4.さいごに
ひとつだけ言わせていただきたいのですが、今回私が取り上げた主なテーマ(競争経済、公立学校)はあくまでも『資本主義と自由』の中の基本理念と、その実践の14のうちの1つを割と過激な論調で短く強引に推し進めただけであり、決してこれらの主張は私の全てではありませんし、恐らくフリードマンの全てでもないでしょう()
あくまで、この過激な主張を出発点に、あるいはこの過激を否定する為に是非自らの手で調べ、自分が信じられる事実を確かめていただけると幸いです。
御青藍ありがとうございました。
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