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役割を遂行するとはいかなる営みなのか:役割論からみるアスペルガー者の逸脱とは

1.問題提起:役割論の理論形成過程を振り返って

本稿の目的は社会学における役割概念に基づいて、状況場面に焦点をあてた役割分析概念を、アスペルガー者(Aspergar's disorder 以下AS者)の役割遂行逸脱事例から検討することにある。H.プレスナーは役割を「自我に関するあらゆる観念を具体化することのできるある構造」と位置づけ、個人と社会をつなぐ重要な概念だと指摘しているように、社会学および人類学のなかで役割論は発展してきた。そして今日、社会学における役割論は、二つの系譜があることが指摘されている(岩田1988,斎藤1993,宮台2012)。

一方の系譜は人類学者R.リントンによる役割概念に端を発している。リントンは未開部族の社会構造や権力関係を調査するなかで、地位(status)と役割(role)の相関関係を定式化した。例えば未開社会においても生産活動や食糧確保、子孫の保育のための地位とそれに応じた役割があり、文明社会と類似した文化秩序がなされていると指摘した。文化とパーソナリティから社会秩序を捉える役割論は、その後T.パーソンズにおける社会構造やパーソナリティ構造論のなかでさらに発展を遂げてゆく。そこで定義される地位とは個人に所与とするシステム内で占められているポジションであり、社会システム内に空間的に分布し、時間の経過につれて分化したり統合されたりしながら社会構造を形成していくものと捉えられている。そして役割とは地位との関連において見いだされる一連の行動様式であり、そこにはある文化圏の集団や社会によって期待される規範性や拘束性が伴うと定義された。

しかしこのように社会の機能や構造から理論化さられた役割論は、R.ダーレンドルフにおける『ホモ・ソシオロジクス:その役割と自由』(1958=1973)において、人間はあらかじめ定められた役割を、そのまま遂行するだけの過度に社会化された存在として結論づけられたために社会で大きな反響を呼び、これまでの議論に対する批判と再検討が求められた。

他方、G.ジンメルやG.H.ミードから出てきたシンボリック相互作用論の立場からも役割の理論化の取り組みがなされていった。こうした立場からなされた理論形成では、社会の機能-構造といった視点から理論化された役割論との概念共有がみられるものの、役割を文化の持続性や秩序維持といったマクロな視点から捉えるのではなく、相互作用という動的な過程のなかで形成および取得されていく役割について論じられる。とりわけこの立場の論者には、自己は他者との相互作用のなかで相手の言動の意味を理解して学習していき、この学習によって個人は相手の期待を選択的に取り入れ、その期待に応じた行動パターン、すなわち役割を身につけていくと考えられた。

そこで彼らが仮定している個人とは、他者の役割期待を能動的で主体的に知覚し、役割を創造および修正する自立的な存在としての自己である。また事例を用いて役割概念を考察し、個人の役割葛藤や役割取得の学習過程を記述する試みもなされている。

このように役割論は1930年代から1970年代までの間、活発に議論されてきたにもかかわらず、役割論は多次元的で明確さに欠いているという指摘の通り(斎藤1993)、その後発展を遂げることがなかった。そして今日においても依然として斎藤が指摘した多次元的で明確さに欠けるという点は解消されておらず、課題は残されたままである。

本稿はE.ゴフマンの個人(パーソナリティ)―状況場面―社会構造の次元の別を導入しつつ、役割を遂行するとはどういった営みなのかについて検討したい。ゴフマンは状況場面における秩序はいかに生起し、展開してゆくのかといった視点から社会学理論の生成を試みた社会学者であるが、彼の役割論もこの問題関心のなかで検討されている。

しかしあえてゴフマンの役割論にない視点を挙げるとすれば、ミクロとマクロを行き来しながら役割分析ができるようなゴフマン理論全体のなかにおける役割論の理論的整合性をつけることであり、また状況場面での役割がパーソナリティや社会構造といった他の次元においてどのように関連しているのかをさらに発展させることである。

筆者は、本稿の事例で取り上げるAS者の非言語的なコミュニケーション障害は、状況場面における役割遂行と深く関係していると捉えている。彼らによる役割遂行の逸脱事例から個人や社会構造において役割とは何なのかと問い直し、古びた概念として捨て置かれている役割論に新たな意義を見いだしたいと考える。

 

2.アスペルガー障害(AS)とはなにか:その歴史と診断基準


精神医学において自閉症という疾病概念が形成され、社会一般に注目されるようになった経緯は決して古くはない。なかでも本稿の事例にてとりあげるASの歴史は浅い。その名称の由来となった小児科医H.アスペルガーが、語彙が豊かであるが特定のことに異常な興味を抱き、著しく不器用である児童4名を「自閉性精神病質」として症例報告を行ったのが1944年のことである1)。そして彼の名を一躍有名にしたのが精神科医であり疫学研究者でもあったR.ウイングである。自閉症児における疫学調査のなかで、知的な遅れを伴うカナー型2)とは異なるケースを「アスペルガー症候群:その臨床的報告」と題して発表したのが1981年である。

また従来、自閉症に対する診断基準は、ウイングが自閉症の中核障害として挙げた「対人相互作用の障害」「コミュニケーションの障害」「想像的活動の障害および反復的な行動パターン」の3つの障害特徴(いわゆる3つ組)によって説明されていることが多い。

アメリカ精神医学会が提案する「精神障害の診断と統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、DSM)の歴史を振り返ってみると、本稿で検討事例の対象となるASが診断名として登場してくるのはDSM-Ⅳ(1994年)からである。自閉症の疾病概念を知的な遅れを伴うカナー型タイプからASを含めた連続体のなかで考えようとした上記のウイングの概念が採用され、その位置づけは、広汎性発達障害の下位カテゴリー、自閉性障害(autistic disorder)、レット障害(Rett's disorder)、児期崩壊性障害(childhood disintegrative disorder)、特定不能の広汎性発達障害(pervasive developmental disorder not otherwise specified〔PDDNOS〕)を含めた5つのなかのひとつであった。そして今日、最新盤となるDSMⅤ(2013年)にて、上記のカテゴリーはレット障害を除く4つの下位カテゴリーを自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)というひとつの概念に統一した。これによってDSMからアスペルガー障害の名称は消えることになった3)。またDSMⅤにおいて自閉症の中核症状であるウイングの3つ組は、「対人相互作用の障害」「コミュニケーションの障害」が統一されて「社会的コミュニケーションの障害」となり、自閉スペクトラム症は「社会的コミュニケーションの障害」「固定的・反復的行動パターン」とその重篤度によって評価されるようになった。

 3.メタ表象と「心の理論」:「心の理論」は果たして何を捉えているのだろうか

自閉症をどのような視点から捉えればよいのか。上記で紹介したDSMは、主観や直感といった感覚的なものをできる限り排除し、観察された患者の症状に基づいて定義分類した操作的基準と言われている。一方イギリスの認知心理学者F.ハッペは、「自閉症とは何か」を説明するには、1行動的レベル(行動的特徴や症状)、2生物学的レベル(生物学的な原因)、3認知的レベル(心理的な障害)の3つの次元における関連の違いを考慮しながら行うことが有効だと説く(Happé 1994=1997:1-10)。

たとえばDSMによる操作的基準は、ハッペの説明に従えばもっぱら行動レベルの説明となる。またDSMに限らず、アスペルガーやカナー、ウイングをはじめとする医師たちによって形成された自閉症に対する診断基準は、患者たちの行動や行為に対する観察によって作り上げられてきたものであり、今日における診断を下す医療現場においても観察による行動レベルからの説明は一定の有効性が示されている。

また生物学的レベルでは、早期から自閉症児の脳器質になんらかの障害があるだろうことは予見されていたが、脳のどの部位や経路に障害があるのかの特定がいまだに明確に示されていない4)。

一方、自閉症に関する認知レベルの説明は、心の理論(theory of mind)によってなされることが多い。心の理論が自閉症児の認知レベルの説明に用いられるようになってすでに30年を過ぎるが、そもそも心の理論の自閉症児への応用は、チンパンジーといった霊長類で行われたある実験に端を発している。動物心理学者であるD.プレマックとG.ウッドラフは、「チンパンジーに心の理論はあるのか」という研究論文において、霊長類のある個体が他個体を物理的なモノと区別し、他個体を独立した精神状態にある存在と認識して、他個体の行動や考えを推測する能力を有しているかどうかを実験で示した5)。その能力はある個体が他個体に目的、意図、知識などの心的状態を他者に帰属させることで可能となると考えられた(Premack& Woodruff 1978)。この論文に対するリプライとして、哲学者D.デネットは「信念についての信念」、つまり信念(思考)を帰属させる主体が考えていることを考える信念(思考)がなければ成立しないとして、高階の信念帰属を提案した。そして「誤りの信念に基づいた人物の行動を理解し予見することだけが心の理論の存在を結論づけるのである。なぜならそれ以外の現実の事態(あるいは主体自身の確信)を扱うのに心的状態をいっさい想定する必要がないからだ」と主張した(Dennett 1978)。

その後、デネットの主張を受ける形でH.ヴィマーとJ.パーナーによる「信念に関する信念(誤信念)課題」、いわゆる「マキシ課題」という実験方法が幼児の認知発達を考察するために開発された。「マキシ課題」とは、「マキシは母親に頼まれ、チョコレートを青い棚にしまっておいた。」「マキシが遊びにいっている間に、母親はお菓子作りのためチョコレートを取り出し、それを青い棚でなく緑の棚に戻した。」「母親が部屋を出て行った後にマキシが帰ってきて、しまっておいたチョコレートを食べようとした。」被験者にマキシはどこを探すのかという質問をするという内容の実験である。

このマキシ課題をよりわかりやすくし、自閉症児の認知研究に用いたのがS.バロン=コーエン、A.M.レズリー、U.フリスらの「サリー・アン課題」である。「サリー・アン課題」の実験内容は以下の通りである。被験者は2つの人形(サリーとアン)を提示される。「サリーはかごをもっており、アンは箱をもっている。」「サリーは自分の宝物であるボールを自分のかごに入れて部屋から離れる。」「その様子を見ていたアンは、サリーのいない間にボールをかごから出して自分の箱の中に移し変え、その場から立ち去る。」「そこにサリーが散歩から帰ってくる。」「サリーはボールで遊びたいと思い、ボールを探す。」被験者にサリーはボールをみつけるためにどこをさがすのかという質問をする。もしここで被験者が「サリーはボールをサリーのかごのなかを探す」と答えれば正答となる。しかしアンの箱のなかにあるという事実から「サリーはアンの箱のなかを探す」と答えれば誤答となる。

バーロン=コーエンらがこの実験を自閉症児で検証しようとした背景には、自閉症児は入れ子構造になった文章理解が困難であったこと、また何かのふりをするごっこ遊びを苦手とする従来からの自閉症児の行為に対する観察に由来していた。

彼らの研究において、この課題を正しく通過できた自閉症児は20%にすぎず、一方精神発達年齢が低いダウン症候群において86%が通過した。この結果から自閉症の基本的な障害が心の理論の障害として説明された(Baron-Cohen et al. 1985)。

しかしこの研究の被験者は知的に遅れを伴うカナー型タイプで行われていた。その後AS者に同じ実験を行ったところ、彼らのほとんどがこの課題に通過すること示された。これによって改めて心の理論は何を捉えているのかということが問題視されることになった6)。

AS者は確かに「サリー・アン課題」を通過するが、それでもカナー型タイプの自閉症児同様に彼らは日常生活にて対人相互作用に障害がみられる。ハッペは実験よりも日常生活ではより繊細な心の理論課題が展開されており、AS者は実験をクリアする程度の心の理論能力しか備えていないのだという。そしてこのことを理由に彼らの対人相互作用の障害を説明しようとする(Happé 1994=1997:171)。

そもそもデネットによる高階の信念帰属理論は、誤信念を発生される状況場面においてのみ心的状態を他者に帰属させるとした論理設定である。しかしデネットも指摘している通り、私たちのほとんどの日常は心的状態を他者に帰属させて推論を行う場面には遭遇しない。たとえば複数人いる状況場面でそれぞれの他者に心的状況を帰属して推論を行うことによる情報処理の負荷は計り知れず、事実我々はそのようなことは行っていない。また人の認知機能はそのすべてが心的状態を他者に帰属させる推論方法によって形成されていくわけではないだろう。ゆえに心の理論に特化してAS者の対人相互作用の障害を説明することは必ずしも有効とはいえない。むしろ彼らの認知のエラーは誤信念が発生する日常場面で起こる頻度よりも、我々も意識していないしまた彼らも意識していない日常場面で起こる頻度の方が高く、このことがAS者の社会適応を困難にしている。

本稿で取り上げるゴフマンは意識無意識を問わず、人々が共在する状況場面から役割について論じている。本稿はこうしたゴフマン理論を参照しつつ、日常場面で人びとは状況をどのように知覚し役割を遂行するのかという点に着目して、AS者の「社会が見えないことによる困難とは何か」という問いに迫りたいと考える。

 4.ゴフマンによる従来の役割概念の概観

ゴフマンは構造-機能的役割分析および役割取得に関する個人の社会化という従来からの役割概念をすべて捨てて最初から作り直したわけではない。むしろこれらの限界を指摘しつつ個人(パーソナリティ)と社会構造とのあいだにゆるやかなつながりがあること示すこと、そしてそのつながりがいかにしてなされるのかを、言語のみならず身体を伴ってなされる相互作用から解き明かそうとした。ゴフマンの著『出会い』「役割距離」は、人々が日常においていかに役割遂行(role performance)をおこなっているのか、その方法について記された論文である。その論での彼の関心の比重は役割遂行過程における人々の印象操作といった自己呈示の説明にあるが7)、本稿では状況における役割遂行を彼の後期の作品となる『フレーム分析』『トークの形式』などでの議論も踏まえて、彼の役割論を発展させてみたい(Goffman1961=1985,1974,1981)。

最初にゴフマンによる構造-機能的役割概念の整理を概観しておく。社会システムとの関係において役割とは、役割単独で概念構成されているのではなく、役割と地位としてひとつのまとまりをなしている。このような関係にある役割とは、あるポジション(地位)にいる者が課せられた規範的な要請との関係で行為しなければならない活動のことである。また役割は自己の行為によって働きかける義務と、他者の行為によって働きかけられる合法的に主張された期待とが想定されている。

そして地位とはいくつかの位置からなるあるシステムのなかの位置のことであり、おのおのの地位は他の地位との相互的紐帯によって関係づけられている。ゴフマンは特定の個人が入ったり、専有したり、離れたりできるのはこの地位であって役割ではないとし、行為に着目して定義されている役割との違いを明らかにする。つまりまず地位への参入は一定程度の適性を持つことが保証されなければならず、そこで初めて個人はその地位に入ることが出来るのである。

一方役割取得に関するゴフマンの見解は、役割取得とは個人がある位置につくとその一部だけをひきうければよいというわけではなく、その地位に対応した役割の全行為を引き受けなければならないとし、ミードの「一般的な他者」の概念に近い定義づけを行う。例えばある病院の勤務医という役割を取得するとは、問診場面における患者対応、同僚勤務医とのつきあい、自分の専門とする科担当の看護師対応、診察した医療点数を計算する事務職員とのやりとりといった行為をひとつずつ引き受けていくのではなく、病院勤務医という地位を取得した段階で、これらすべてを引き受けることになる。

このように従来の役割分析の特徴は、生活史を持った個人がいま・ここでどのようにして役割遂行を行っているのかというよりも、個人に課せられた責務的な活動や地位が相互依存の関係にあり、それらがひとつの活動システムとしていかに機能しているのか、またこうした活動システムはどんな特徴をもち、いかに変化するのかといった点を分析対象としてきた。例えば、ある組織における役割が比較対象組織において複数の地位へ割り振られていたりするさまに着目したり、またある役割が時間の経過のなかでどのように機能分化するのか、あるいは縮小する際にどの役割と結合するのかといった点に注意が注がれてきた。さらに構造-機能的役割概念では、例えば医者、主婦、僧侶といったステレオタイプ化したあるイメージを持って確立された典型的役割(カテゴリーなど)や、役割が社会システムのなかで結晶化していくプロセスのなかで生じる規範的側面が論じられてきた。

 5.ゴフマン理論の役割論:状況場面における役割遂行

次にゴフマンの役割論について紹介しよう。ゴフマンは状況をある程度閉鎖的で自己補正的、自己完結的で、参加者同士の相互依存的な活動システムであると定義する。そしてこのように定義から役割を捉えれば、役割とは対面的な状況のなかで実現され、他者たちが遂行する活動に組み込まれる活動の束のことであるという。そして個人は個々の状況場面における知覚から、その状況を規定する役割に反応すると同時に、そのことが個人に関する何らか自己イメージを形作っていることになるのだと。

ゴフマンはこのような役割のとらえ方を、遊園地におけるメリーゴーランドを用いて説明している。メリーゴーランドとは、回転する床の上にその床の回転に合わせて上下する座席を備えた遊具であり、その座席は馬に似せてつくられ、乗客は騎乗をシミュレートすることになる。乗客の対象年齢はひとりで乗れることであり、定型発達の3歳以上の子供であれば誰でものれると想定される。本稿ではこの事例を役割の状況場面におけるふさわしさに力点を移して説明してみたい。

メリーゴーランドにおける一コマとは、乗りたい人がその遊具で遊べる切符を買い、切符を持っている人だけが一緒に馬の形をした座席に乗って、決まった遊園時間が終了するとその遊具から降りるという、限定的な時間と空間の広がりを持つひとまとまりの活動システムである。その状況には、1メリーゴーランドの騎手、2彼らを見守る親や友人などの観客、3遊具を動かす従業員といった役割が社会的に分化している。たとえば従業員という役割を遂行する人にとってみれば、比較的長い時間を従業員という役割によって拘束される。また彼らにとって遊具の起動から終了までのひとまとまりの状況は、繰り返される日常の一コマにすぎない。一方メリーゴーランドで騎乗するという役割を遂行する人は、騎手という役割を遊園時間の終了とともに容易に脱ぎ捨て、その後の状況の推移にしたがって別の役割を遂行していく。

次に実際に、3歳の人間Aにおけるメリーゴーランドの騎手としての役割遂行について考えてみよう。まず3歳に達して切符を持っている時点で、Aにはメリーゴーランドの騎手という地位への適正が認められている。そしてメリーゴーランドが動き出すと、Aは気力とありったけの能力を振り絞って、両親のところを通るたびに注意深く片手を手綱から放して、こわごわと微笑したりキッスの合図を送る。Aの視点で考えるならば、Aは時間と空間的な広がりをもつ環境(状況)を意味あるものとして組織化するために、この状況をメリーゴーランドという場面として知覚し、その場でふさわしい騎手という役割に反応していることになる。一方で観客となる親や従業員は、メリーゴーランドにおける一コマでのAの行為やその様(Aがひとりで騎乗でき、怖そうにしていても泣かずに遊具で楽しんでいる様子)に対する観察によって、Aが騎手という役割遂行における能力に問題がないと認識する。そしてAの怖々としたその様子から、騎手という役割遂行において求められる能力と遂行者であるAの実際の能力が均衡していることがうかがえる。この場合、その状況のなかで得られるとみなされるAの自己イメージは役割遂行過程のなかに消えてなくなり、完全に役割のイメージと自己イメージが重なる。このような状態をゴフマンは役割に受け入れられた(embracement)と表現する。

では次に20歳を過ぎた人間Bにおけるメリーゴーランドの騎手としての役割遂行について考えてみよう。Bが友人と共に遊園地にやってきたと仮定する。Bはすでに20歳であり切符も購入済みで、メリーゴーランドの騎手としての地位への適性が認められている。メリーゴーランドが動き出すと、Bはいたずらっぽく必要以上に安全ベルトを強く締めて見せたり、または両手をクロスさせ、左手にあるポップコーンを右に乗馬している人に渡し、右手のコーラを左にいる人へ渡すなどのしぐさをしている。このように多彩な技法をこらして、Bは騎手としての役割遂行過程においてその場を冗談として再定義づけを行っている。この様な状況の意味づけの変化を行う行為をゴフマンは役割距離として説明する。では役割距離とは何か。ゴフマンの『フレーム分析』『トークの形式』における議論を踏まえて、この事例をもとに役割距離について説明してみたい。

Bはメリーゴーランドという時間と空間に規定された環境における役割に従事しつつも、その場を共有する観客を含めた状況場面でふさわしい振る舞いをするために、成人という年齢役割にスイッチして、その場の状況を冗談の場へと転調させる振る舞いを行なったのである。もしBが子供であるAのように、注意深く片手を手綱から放して、こわごわと微笑したりキッスの合図を送るなどの行為を行ったとしよう。この行為が観客にとって冗談の域を超えるほどの切迫した印象を与えた場合、友人たちはBの様子を異常と認識し、Bの具合がどこかおかしいのではないかと、その様を別の文脈から読み取るかもしれない。ゆえにこの状況で適した作法とは、メリーゴーランドの騎手から年齢役割にスイッチして役割距離をとって振る舞うことである。

20歳を過ぎた定型発達者がメリーゴーランドの騎手として役割遂行するならば、その能力に何の問題もないはずである。ここで問題になるのはそれがふさわしいかどうかという点にある。つまりこの年齢の人間は、メリーゴーランドの騎手をつとめるには十分すぎるほど発達をしているのであり、役割遂行が容易であることが一般的(典型的)である。Bの視点に立ってこれを捉えるならば、容易であることを示すことが規範的となり、Bはその余裕ぶりを役割距離によって示さなければならない。またこれは同時に観客である友人や従業員もそのような振る舞いを期待していることとも関係してくる。

個人が引き受ける役割が多元化している現代社会において、場にふさわしい役割距離を期待される機会はますます増加傾向にあり、世間で言われている「空気を読む」という意味のなかには、このような役割距離の典型性や規範性が問われているのだと筆者は考える。

図1

メリーゴーランドの遊園時間

開始_________________終了

{騎手役割(年齢役割          )}

  また20歳のBがメリーゴーランドの騎手をつとめる事例に対して「いまここで起きていることは何か」と事実を問う質問が投げかけられたとすれば、その回答は「メリーゴーランドという遊具に20歳の人間Bが騎乗していた」という内容になるだろう。その一方で、B、Bの友人、従業員に対して「どんな経験をしたのか(いかに経験を組織化したのか)」と問いかけたならば、「いい大人がメリーゴーランドでおふざけをしていた」と回答するかもしれない。

メリーゴーランドは一つの短いある活動システムでしかないが、我々はこうした活動システムが数珠のように連なった世界のなかで生きている。そして我々はほぼ無意識に、状況における活動システムを知覚し、「いまここで起きていることは何か」に対応した役割に反応しつつ、その場のふさわしさに合わせて役割距離を行っているのである。

 6.役割遂行において社会が見えないと何が起こるのか:AS者の事例からの検討

では次にAS者の役割遂行における逸脱事例を検討してみたい。本稿で取り上げる事例はある会議の雑談の場で語られたものである。

筆者は現在、モノづくりをテーマとした発達障害者向けの作業所の立ち上げにかかわっている。社会は人々の相互作用から成り立っているのに、発達障害者はその相互作用に障害があるとされる。苦手に立ち向かう姿勢も美しいと思うが、ときには上手に回避しつつ社会とつながることはできないだろうか。作業所のコンセプトはアートというよりも生活に役立つモノをつくることで、一般社会へのつながりをもとめるというものである。

ある会議とはこの作業所立ち上げを目標とした準備会議のことである。去年の夏頃から二週間に一回のペースで開催してきたが、思わぬ事件や手続き上の不備が重なり、当初の計画から二転三転している。現在もまだ準備中であり、なかなか開設に結びつかないもどかしさを抱えながら、今も定期的に会議を開いている。

そんな準備会議に、経営運営や事業内容に関するアドバイザーとしてある方をお招きしている。ここでは仮にCさんとしておこう。以下で紹介するエピソードは、Cさんが就労支援相談をしたある女性に関するものである。その女性を仮にDさんとしておく。Dさんは大学を卒業したものの、なかなか就職活動が実を結ばなかった。その後発達障害が疑われたため医療機関に受診し、ASの診断を受けたという。

障害を隠しての就労は難しいと判断したのか、障害をオープンにして職を探していたところ、ある旅館での仕事が見つかった。当時、発達障害者に対する障害者雇用支援は始まったばかりで、ジョブコーチといった障害者と企業の双方を支援する制度は未発達だった。そのようななかで旅館の管理者は、Dさんに対して「客室の掃除は誰にでもできるから」と、客室清掃の仕事に従事するように指示をした。また清掃作業を割り振られた理由には、作業はひとりで行い周囲に気を遣わなくてもよいため、人とのコミュニケーションを苦手とする発達障害には適しているだろうという配慮からだったという。

さてここで客室清掃という仕事を、役割遂行という視点から考えてみたい。まず客室清掃という地位に関してどんな行為が要求されるのか。そもそも客室清掃の仕事とは何をすればよいのだろうか。客室清掃とは旅館のチェックアウトとチェックインの間の時間に各部屋を回り、清掃してく仕事である。具体的に求められる作業を上げてみると、室内のごみ回収、シーツやタオルといったリネンの回収、カートから新しいリネンを取り出してベッドメイク、バスやトイレの清掃、使い捨て歯ブラシやソープなどアメニティ補充、バキューム掃除機かけなどである。また客室清掃という役割における規範として、この職業はただの清掃や補充業務ではなく、次の客を迎え入れる準備をするという意味も含まれ、心配りを示すことが要求される。働く時間帯は比較的短いが、ほとんどが立ち仕事で、ベッドメイク、バスやトイレの清掃は中腰の姿勢になることもあり、体力を必要となる。通常平均10室以上を担当することが一般的なようだ。

ではDさんの事例について説明していく。Dさんが最初につまずいたのは、作業が遅すぎるということだった。障害をオープンにしていたものの、職場には発達障害に対する理解が深い者がいなかった。そして客室清掃はあるフロアや区画ごとにチーム制で仕事をしていくことが多い。限られた時間内で全室の清掃を終えなくてはならず、「一部屋何分で清掃を完了させる」などの目安があり、時間との戦いになる。時間内で終わらせるには、ごみ回収→リネン回収→カートからリネン補充→バス、トイレ清掃(食器類洗いやアメニティ補充)→ベッドメイク→拭きあげ→バキュームなど、合理的な手順や動線を考えて動くことが必要であった。ところがDさんは決められた時間内に一室の清掃も終わらせることができなかった。

またDさんはゴミ回収という作業に悩みを抱えていた。たやすいこと思う人もいるだろうが、ゴミは最初からゴミとして社会に存在しているのではなく、ある時点からゴミとして位置づけられてゴミになる。人間社会においてモノは物理的な意味だけで存在しているのではない。タオルなどの施設内備品、使い捨てのアメニティ、客の忘れ物、そして「真の」ゴミを分別するには、その分別能力がなくてはいけない。例えば客が持ち込んで飲んだと思われるワインのコルクが、ゴミ箱ではなく机の上に残っていた場合、客室清掃員はそれはゴミと判断してよいだろうか。客が捨てるのを忘れただけなのか、もしかしたら何かの記念でワインをあけ、そのときの記念として残していたものかもしれない。また一本だけ残されたタバコの箱はゴミと判断してよいか。特徴のある模様の包装紙がきれいに折りたたまれて残されている場合、それはゴミだろうか。

客から問い合わせがあった際、すでに破棄していては対処ができず、またおもてなしをサービスとする旅館において「捨てました」では評判を落とすことになる。ゴミかどうかの判断に困難な場合はひとまず保管し、一定期間経過したのち破棄するのだという。しかしDさんは、捨ててよいゴミと保管するグレーゾーンのモノの判断ができなかった。この違いを判断するには、モノの社会的文脈を読み取りそれによって分別する能力が必要だったのだ。

この事例を役割という視点で捉えてみると次のような考察が可能となる。まずなぜDさんに客室清掃という仕事が割り振られたのか。これを考える前に私たちは客室清掃員という役割にどんな人が一般的に応募してくるのかを想像してみよう。客室清掃員は比較的短時間でそれなりの収入が得られ、正社員よりもパートタイムの雇用形態が多い。となれば家事はあまりおろそかに出来ない家庭持ちの人で、マイホームの購入かあるいは子どもの進学準備か、なにかの理由で世帯主以外の収入を必要としている。年齢は若いとは言えない中高年くらいだろうか。そして清掃という作業は従来から女性が担ってきた性別役割であり、その習慣は一般の人びとのなかにも旅館業界にも根強く残っている。また客室清掃は知的労働というよりは肉体労働の部類に入り、このような作業をいとわないのは大卒以外、専門学校や高卒あたりではないか。これらのイメージをまとめれば、われわれは客室清掃員という役割に、女性、既婚、中高年、高卒程度といった典型的なイメージを持つことが多いように思う。このイメージは少し古いデータになるが、1994年に出された日本労働研究機構による『ホテル・旅館業界の労働事情』(調査研究報告書)における調査結果の内容とほぼ一致する(日本労働研究機構 1994)。

では次に旅館の管理者は障害をオープンにして就労しようとしたDさんに、なぜ客室清掃員の役割を割り振ったのか。まずDさんは大卒であった。大卒であるなら高卒相当の仕事は容易にその仕事内容や構造を理解できるであろう。また本来中高年の女性がつく仕事であるのに対して、Dさんは20代と若く、目に見える身体的な障害をもっていないのであれば、体力的にも問題はないはずだ。旅館の管理者は、Dさんの外見やプロフィールによって形作られたイメージと、客室清掃員という役割遂行の上で必要な能力やイメージを比較考量し、その差分を大きくとることで障害者である彼女に配慮したのである。

ところが役割遂行を行う実際の状況場面において、Dさんはゴミ回収という客室清掃の役割遂行における基本的な行為ができず、また時間内で一室も清掃作業を終えることができないという想定外の結果だった。つまりDさんは客室清掃という地位に対して適正であるとの許可を得ていたにもかかわらず、実際その役割を遂行するための能力が不足しており、Dさんは客室清掃員という役割に関与(commitment)することができなかった。旅館の管理者や職場の同僚たちは、Dさんに客室清掃という役割を期待したにもかかわらず、彼らの期待は裏切られたのだった。

またこれをアイデンティティ関するゴフマンの理論を追加して分析するならば、旅館の管理者や同僚といった他者が予測的に帰属させていたDさんへの属性やカテゴリーである仮想的な社会的アイデンティティ(virtual social identity)と、Dさん自身が示しうる属性やカテゴリーである実際的な社会的アイデンティティ(actual social identity)が乖離し、あらためて障害者としての彼女の属性があらわになった。そのため管理者や同僚たちにおけるDさんへの信頼が失われ、またDさんの立場からみれば彼女は面目を失ったのである。

 7.システムにおける役割分化のプロセス:障害者就労支援に対する示唆

その後のDさんの就労の行方が気になるところである。客室清掃という役割に受け入れられなかったDさんであったが、実は新たな役割を獲得することに成功した。次にその経緯を追ってみたい。

そもそも旅館業界において客室部門の従業員はパート職員が多い。パート職員には、正規職員として働けないあるいは働きたくないなど、それぞれに事情を持っている。そのため旅館の各作業場に、彼らの事情を配慮してシフトを組んだり、現場の仕事の進捗を管理したりするチームリーダー的な役職が存在する。Dさんがつとめる旅館でも客室清掃作業に複数人のチームリーダーが在職しており、他の職員よりも経験を積んだ者がその役職に就いていた。

作業の不出来を未熟さと判断され、そうであるならばチームリーダーの指導の下で丁寧に指導を受ければなんとかなるのではないか。旅館の管理者からそのように配慮されて、Dさんは客室清掃現場のチームリーダーの指導の下で作業を再開することになった。ところが経験豊かなチームリーダーたちでさえ、皆Dさんの扱い方がわからなかったという。

まず彼らはAS者がどんな作業を不得手とするのかわからなかった。ゆえに時間をかければマスターできるだろうと思って割り振った作業に、Dさんはいつまでたっても満足いくレベルまでに到達しなかった。またDさんはわからないことはなんでも質問する人だった。質問することが悪いというのではなく、予想もしないような質問内容とその頻度が、チームリーダーたちの精神的な疲労感へつながった。例えばシーツをどこから取り出し、それを使ってどのようにベッドメイクするのかといった質問は新人ではよくある質問だったが、ところがDさんはチームリーダーたちも気にとめていなかったシーツのたたみ方の手順について質問してきた。「みればわかるだろうに」「そんなこと子供でもできるのに」という気持ちを抱きながら、それを一からやってみせなければならなかった。これまで意識してこなかった行為に目を向け、それを言葉や動作で説明しなければならなかった。誰もがあきらめかけたなか、ある女性リーダーがDさんの指導担当になったとき、ようやくDさんの職場適応が可能となったという。そこで何が起こったのだろうか。Cさんの話から女性リーダーが行ったことをまとめてみたい。

1他の職員と連携したり、相互作用が密にならないようにする。客室清掃はチーム単位で行うために、Dさんには不向きだった。ゆえに女性リーダーは、最初から最後までDさんひとりで完結し、比較的時間に拘束されない作業をDさんのために用意した。

2既存のシステムに新たな地位を作り出し、その地位に適した作業を既存の地位から分割する。Dさんはそもそも客室清掃役割が遂行できなかったために、役割に関与できなかった。客室清掃に求められるすべての行為を遂行できないのなら、Dさんが確実にできる作業を客室清掃役割から切り出せばよい。実際にDさんのために切り出された作業とは、客室から廊下へ出される大量のリネンの回収と、洗濯からあがったリネンをリネン置き場に補充することであった。

3一般職員とは異なることを視覚化する。パート職員は入れ替わりが激しく、常にDさんが特別な存在であることが皆に周知されているわけではなかった。そのため同じ制服を着て作業しているDさんを普通の客室清掃員と勘違いし、いろいろな用件を頼むことがあった。Dさんはその用件に応えることができず、そのため客室清掃というシステム活動に混乱が生じた。見分けがつくようにとDさんに客室清掃員とは異なる給仕職員用の制服を支給し、通常の清掃員との違いを視覚化した。

4インフォーマルグループへの参加要求を緩和させる。客室清掃員の世界は女性職場であり、また中高年女性が多い。昼食はだいたい職員同士が輪になってとることが暗黙のうちに決まっていた。仲間として受け入れようとする善意な気遣いから、同じ輪に入るように勧める清掃員もいた。場の居心地の悪さや年上に対する適切な対応がわからず、Dさんはそういった誘いに戸惑いを示していたという。そこである女性リーダーが「彼女はちょっとそういうことが苦手だから」と、Dさんに声がけしなくてもいいことを他の清掃員たちに明示的に説明した。それを期にDさんは安心してひとりで食事がとれるようになった。

このような配慮がとれた女性リーダーと他のリーダーたちとの違いはなんだったのだろうか。この話をしてくれたCさんによれば、ある女性リーダーは、Dさんに指示したこと、Dさんが実際にやっていたこと、実際にその作業で求められる達成度との差分を計算し、Dさんに任せられる仕事を見分けていたようだったという。また頻度の多く、その説明に皆が疲労していたDさんの質問にも、嫌がらずに親切に説明を繰り返せる人だった。Cさんの言葉を借りれば「園児の動きを察したり、初めての経験をやさしく説明して納得させる、まるで保育園の保母さん」のような感じの人だったという。

最後にDさんの職場適応の事例を役割という視点から捉えてみたい。旅館を運営するというシステムのなかで、客室清掃という役割は旅館という全体との均衡のなかで機能している部分である。客室清掃の役割のなかから切り出された上述のDさんの役割は、全体の部分である客室清掃のシステムのなかのさらなる部分として機能する作業であった。また一般の清掃員からDさんとの違いを明示し、視覚化したことは、旅館システムの客室清掃というサブシステムから、さらにサブシステムへ細分化した障害者職員役割という地位を作り出したことになる。このようにして従来の旅館システムにおける役割に受け入れられなかったDさんを、職場から排除するのではなく、新たなサブシステムを創出することで旅館システム内に包括させた。

 8.結びにかえて

個人と社会をあるつながりで捉えられる概念として期待されていた役割論が、ある時期から重視されなかった要因は、両者を視野に入れて事例検討し、それを理論的に発展させることができなかったことにあると考える。役割遂行における逸脱事例から役割論を発展させるという筆者の試みはまだ始まったばかりであるが、社会学の役割論の発展とともにAS者や彼らを取り巻く世界にとって何らかの示唆につながれば幸いである。

 謝辞

 本稿の事例はCさんから公表の許諾を頂いている。Cさんは会議の合間や何気ない時間に、発達障害の就労支援や障害特徴についてお話して下さる。そのようなひとときのなかで発せられた「彼らと作業は共有できても、責任(responsibility)ある仕事は任せられない」といった言葉は、本稿を執筆するにあたり大きなヒントになった。ここに感謝の意を示したい。

  注

1)アスペルガーは症例に脳器質性の病態があると認めながらも、性格の偏りである「精神病質」(いわゆる人格障害)であって旧来概念からの精神病ではないと指摘し、彼らの訓練による就労の可能性を指摘している。また自閉の概念はブロイラーが統合失調症における外界との接触の根本的な障害を表現するためにもちいた「自閉性」に由来するが、統合失調症が徐々に外界との接触を減少させていくのに対して、幼少時よりそれがない点を指摘し、精神病との区別を指摘している。

2)R.カナーは1943年に情緒的接触の自閉的障害を示す11名の症例から「早期幼児自閉症」の報告を行った。彼の考える早期幼児自閉症は、統合失調症の最早期表現型として、従来の統合失調症の「自閉性」概念が踏襲されている。

3)WHOが提案する「国際的診断基準である国際疾病分類」(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems、ICD-10)(1993年)では、広汎性発達障害の7つの下位グループ(小児自閉症(childhood autism)、非定形自閉症(atypical autism)、レット症候群(Rett's syndrome)、他の小児期崩壊性障害(other childhood disintegrative disorder)、アスペルガー症候群(Asperger's syndrome)、他の広汎性発達障害(other pervasive developmental disorder)、広汎性発達障害・特定不能のもの(pervasive developmental disorder, unspecified))を分けており、現在でもアスペルガー症候群の診断名は存在する。

4)例えば近年、後天的に前頭葉に障害をもつ高次脳機能障害の患者が失敗する課題に、自閉症者も失敗することから、自閉症にも前頭葉に何らかの障害があるとする「前頭葉障害仮説」がある。ハッペによると、前頭葉は脳の広い範囲占めており、他の皮質系やその下位領域における入力を受けているため、必ずしも高次脳機能障害との比較で自閉症を捉えることはできないと否定的に考えているが、自閉症児の実行機能障害をみると必ずしも無関係とはいないとしている。

5)チンパンジーのサラに「バナナを取ろうとして手が届かない人、檻の外に出たいのに鍵を開けられない人」を提示して、サラがそういった困った人たちの信念や意図を推測したような行動ができるのかを観察した。

6)心の理論が依拠するデネットの高階の信念帰属理論に対する疑問も示されている。またデネットの理論と認知実験における計測の整合性に対する疑問なども指摘されており、心の理論における信念課題研究に対する論争は絶えない。

7)役割距離に対するゴフマンの見解は「行為者の彼の特定の役割に対する愛着を評価することに関連し、また、彼がその役割にある程度冷たくなり、むしろ抵抗することを示唆するようなことに関連して、そこに居合わせた誰かによって見られるような行動についてだけ述べようとしたものである(Goffman1961=1985:115)」と、役割遂行者を基点とする役割への愛着や関与と関連させて定義する。またその一方で個人の役割の多元性が増した社会において、役割距離は状況にかかわりあるシステムを準拠として与えられる典型的な側面が生じるとともに、役割距離を表現することは役割遂行者が他者に示しうる自己イメージに対して責務的となることも指摘している(Goffman1961=1985:160-161)。また『フレーム分析』『トークの形式』の論考を踏まえてゴフマンの役割論を整理するならば、遂行者のパースペクティブから役割距離として意味づけられているものは、状況場面からみれば役割の多重性(入れ子構造化)を説明しているものと言い換えることができるであろう。

 

文献

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Goffman, E.,1961 Encounters: Two Studies in the Sociology of Interation, The Bobbs-Merrill.(=1985,佐藤毅・折橋徹彦訳『出会い:相互行為の社会学』誠信書房.)

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岩田若子,1988「「役割」概念の再検討: E.Goffmanにおける"役割距離"の含意」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』(28),11-21.

宮台真司,2012,「役割理論」大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一編集委員・見田宗介編集顧問『現代社会学事典』弘文堂,1271-1272.

日本労働研究機構,1994 ,『ホテル・旅館業界の労働事情 (調査研究報告書)』(53),(2015年11月8日取得,http://db.jil.go.jp/db/ronbun/zenbun/F1996010004_ZEN.htm)

Premack, D. & Woodruff, G. ,1978,Does the chimpanzee have a 'theory of mind'? Behaviour and Brain Sciences, (4), 515-526.

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