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自由と平等と平和はワンピースの世界では同価値ではない~FILM RED感想(ネタバレあり)~

2022年8月末現在で興行収入100億円を突破した劇場版ワンピースを見てきたのでレビューする。大いにネタバレが含まれているので見ていない人は閲覧非推奨である。

漫画「ONE PIECE」は尾田栄一郎氏が描く海賊冒険活劇である。グランドラインと呼ばれる過酷な航路をこの世で唯一制覇した海賊王「ゴールド・ロジャー」は処刑直前に自身の財宝「ワンピース」を隠したと宣言する。人々はワンピースを求めて海へと乗り出し、世は海賊が跋扈する大海賊時代へと突入していた。海賊王を目指す主人公「モンキー・D・ルフィ」も海賊として大海原へと乗り出す。仲間を集め、己を鍛え、彼らの常識外れの航海は続く。

ざっとワンピースのあらすじを書いてみたが、恐ろしく説明が難しい作品だと思った。上記説明では面白さがまったく伝わらない。漫画だから背景の説明を絵と見開きで説明できるが、文章で書こうとすると容易ではない。本当はゴムゴムの実とかルフィが海賊を目指すきっかけであるシャンクスについて書かなければならないのだが、文章では書くと味気ないものになってしまう(ルフィの生い立ちに特化した記述があらすじとしては恐らく正解)。ここでは大胆に単行本103巻までの内容は既知としよう。

前置きはここまでとして本題に入る。いよいよネタバレに踏み込んでいく。

以下からはネタバレを含むのでクッションとして画像をかませておく

ONE PIECE FILM RED前編部分感想

私と同じくコンテンツオタクの知り合いが「ONE PIECE FILM REDめっちゃおもろいよ」と言っていたので劇場に足を運んだ。私が最後に見たワンピースの映画はSTRONG WORLDであるが、それ以前の映画はいまいちな出来だという印象だったので面白ければ儲けもんだなくらいの軽い気持ちで以下のPVだけ試聴して映画館に向かった。

が、開幕から不穏なカットインから始まったので期待が爆上がりした。唐突に映る謎のキノコ、謎の紋様(後にこれはウタのリストバンドだと判明する)、そして五老星が語るトットムジカとは…?という疑問符を浮かべながら開幕のライブシーンに突入した。

PexelsによるPixabayからの画像

私はワンピースの映画を見に来たんだったよな…?と戦慄が走ったのがこのタイミングである。私は音楽は聴かない人間であるが、Ado氏の歌声はパワフルかつ美麗であり、アップテンポな曲調から「私は今、ライブを見に来たんだった…!」と錯覚するぐらいテンションが上がった。完成度の高いウタのライブシーンはミュージックビデオ(MV)と捉えてもらっても構わない。

しばらく呆気にとられていたのだが、これは期待できるぞ…ということでいい気分のままスクリーンに集中し始めた。そして私を襲ったのは多数の違和感である。

まずウタの悪魔の実が分からない。ワンピースの世界で物理法則に違反するような不思議なアクションをキャラクターが起こした際には悪魔の実によるものだと考えるのが普通だが、だとしたら一体何の実だ?と考え始めた。当然ながら筆頭はウタウタの実である。が、いくら何でも万能すぎる。歌うだけで食べ物や物体を創造したり、ビッグマム海賊団のオーブンとブリュレをあっという間に鎮圧したりするなんて強すぎないか…?

第2にウタの発言から漂う不穏な感じを嗅ぎ取った。彼女は「いつもはすぐに終わってしまうライブとは違って、今日はエンドレスで歌う」と言う。そんなの体力的に不可能だろうし、聞く側だっていつまでもライブを聞いているわけにもいかない。ライブというハレの日だけではない、家庭や仕事を守るケの日だってあるのだ。ウタはルフィに対しても「楽しい世界にずっといてもらう」という不気味な発言をする。そう、私からすれば不気味である。今、この場に束縛するかのような発言を笑顔でするウタを見て、なんでそんなことを言うのだろうか?と猜疑心が増した。

極めつけがウタとルフィの幼少期の記憶である。ルフィとウタが決闘を終えるとウタを含む周囲の人間が寝ている描写が入るが、これは何故か?違和感は増していく。なぜサンジは食材に紛れ込んでいたキノコを除去したのか、なぜシャンクスの娘がシャンクスと共にいないのか、なぜウタは今さらになってオフラインライブの開催を決意したのか?

もったいぶることなく作中にてウタウタの実の詳細が明かされる。ルフィたちがいるのはウタウタの実が創り出した仮想世界「ウタワールド」だった。だからこそ世界の創造者であるウタだけに絶対的な権限があるし、永遠に楽しい世界を実現すると彼女が豪語できたわけだ。そして歌い疲れると寝てしまうというウタウタの実の欠点と共に、ネズキノコをウタが食していると発覚する。ネズキノコを食べた人間は眠れなくなりやがては死に至る。そしてウタワールドを展開した状態でウタウタの実の能力者が死ぬとウタワールド内にいる人間は目覚めなくなる。ここまできてようやく視聴者にウタの目的が判明する。世界規模での心中を図ろうとしているのだと。

ONE PIECE FILM RED後編部分感想と考察

トットムジカが目覚めてからはいつものワンピースらしい作風になった。多数のキャラクターによる総力戦であり、ウタワールドと現実世界の双方からの攻撃では、これまでほとんど戦闘シーンがなかったヤソップやシャンクスがついにその手腕を発揮する。

このあたりから私が考察し始めたのが「どういう終わり方であれば尾田栄一郎氏が望むベストのエンディングになるのか?」である。物語は終盤なのになぜそんなことを考えているのかと言えば、本作には明らかに作者の監修が入っており、作者の意に反する終わりを迎えるわけにはいかないだろうと予想したためである。ウタの物語は漫画版ワンピースの第1話、つまりシャンクスとルフィの物語に割り込む形で挿入されている。だが、ウタの存在はワンピース第1話と矛盾してはいない。決闘の際にウタがジュースを飲ませてルフィの気をそらすシーンは原作1話で海賊船に乗せることをねだるルフィの気をそらすためにシャンクスが使った手と同じである。そして初期のルフィはゾロやナミに対して「仲間にするなら音楽家だ」とよく言っていた。これは赤髪海賊団の音楽家であるウタを知っていたためと解釈できる。もちろんウタの存在は今回の劇場版のための後付け設定なのだが、ウタの存在は原作と致命的な矛盾が無いように注意深く設定されている。ウタという新キャラが物語の異物とならないためにである。

原初の物語に差し込まれたウタという存在に対する終わりとしてふさわしいのは何か?それはルフィも原点回帰することだろう。ルフィの原点はいつも叫んでいるあのセリフである。「海賊王に俺はなる!!!」

MasterTuxによるPixabayからの画像

本作はいわばルフィの原点にもう一度焦点を当てるための映画だったのだと私は考えている。漫画は103巻まで現時点で出版されているが作中を通して一貫してルフィは自分語りをしない。「あの時ああいうことがあって、そこで俺はこういうことを考えて…」という発言をしない。彼には思ったら行動するし、発言する人間であるからだ。今後の漫画内でも「ウタ…海賊王に俺はなったぞ」なんて言う独白はないだろう。ウタが劇場版だけの存在だからではなく、独白はルフィが行わない行為だから。しかし、観客である我々は知っている、というか知ってしまった。ルフィには2歳年上での幼馴染のお姉さんがいて、彼女とルフィは共に新時代を作る約束を交わした。ウタは平和で平等な世界の実現を新時代の旗印として掲げたが、対照的にルフィはまだ新時代のビジョンは無く冒険を経て決めると言い放った。ルフィが今後の冒険の後に新時代を実現し、麦わら帽子が似合う素敵な男になり、海賊王になった暁には、我々「ONE PIECE FILM RED」の視聴者だけは原初の約束であるシャンクスとウタの両方の約束が果たされたという感慨に浸れる。ルフィの原点となる物語に深みが増したわけである。

包括的感想

音楽とか本とかドラマとかこの世には様々なコンテンツがあふれている。だが本作はコンテンツとしての強度が段違いである。1900円で本作と同じわくわく体験できるコンテンツがこの世にどれだけあるだろうか?事前に大して期待していなくとも楽しめる作品がどれだけあるだろうか?楽しもうとこっちが身構えていなくても盛大に楽しませてくれる作品がどれだけ存在するだろうか?一流の人間が集結して、一流の人間が創り出したコンテンツが本作である。今後、1000円のコンテンツに出会ったときに心の中で考えてしまう。「これはワンピースフィルムレッドの半分の面白さを提供してくれる作品なのか?」と。

さて、少し視点を変えてみる。本作はある意味ワンピースらしくない。ウタの行動原理は世界をかりそめの平和に導くことだが、そういったキャラクターがワンピースに出てきたことが意外である。もちろん一見純粋無垢なヒロインが世界を滅ぼそうとする悪役で、主人公たちは世界滅亡を阻止するという構図は何もそんなに珍しいものではない。一番旬な作品だと「惑星のさみだれ」がそれに該当する。ヒロインの行動を阻止するという意味では「魔法少女まどか☆マギカ」だってそうだ。

広義でのヒロイン救済系の物語は王道中の王道である。が、本作では王道にして新しさを感じた。この気持ちは「エンダーのゲーム」でも感じたし、「レディプレイヤー1」でも感じた。巷で面白いと言われる作品は独創的だから評価が高いというよりは王道のアレンジが上手くて面白い。本作は世界の歌姫かつ幼馴染(もしくは娘)であるウタをルフィとシャンクスが救おうとする物語であり、そのように言ってしまえばチープである。だが、ウタの行動の意図が中盤まで明かされず、怒涛の勢いで伏線回収されていくがゆえに新しさを感じた。

ワンピースではまっすぐなヒロインを救う話しかこれまでやってこなかったからウタのようなヒロインが出てきたのは意外だった。ナミ、ビビ、ロビンはまさにまっすぐなヒロインの典型例だろう。そういう意味で本作では意表を突かれたし、10年くらい昔のゲームやアニメっぽさを感じた。尾田先生は最近になって昔のアニメでも見ているのだろうか?

ワンピースの世界における自由と平等と平和

歌で世界を平和に導くと語るウタにはジョンレノンを重ねて私は映画を見ていた。だがウタは世間知らずであるがゆえに主張が幼い。平和なウタワールドに閉じ込めておけばいいなんて幼稚であり、羊飼いの子供にだって反論されている。仕事があるから帰るよと。

だがちょっと待ってほしい。我々の現実世界では自由と平等と平和は大切なものだろう?しかもどれも相当重要視されている概念だ。平和で平等な仮想現実に入って生きていくことがそんなに悪いことだろうか?仮に選択の自由があったらどうだ?ウタワールドに入るか入らないかが選択出来たら、ウタの主張は認められただろうか?

Gennaro LeonardiによるPixabayからの画像

仮に選択の自由があったとしても「ルフィだって、シャンクスだってウタワールドに入ることは決してない。そして羊飼いの少年だって入らないだろう」と私は考える。ワンピースの世界では平等や平和なんて概念は虚構なのである。シャンクスだって作中で言っている。「なあウタ、この世界に平和や平等なんてものは存在しない」と。ウタの掲げた理想論は少なくともルフィやシャンクスからすれば検討するに当たらない主張である。

なぜか?平等や平和なんていう虚構の概念よりも確固として存在する自由の概念の方が価値が高いからである。海賊であるシャンクスやルフィは自由の楽しさと辛さを知っている。そして羊飼いの少年は家に帰って仕事をするという自由の方を重んじた。平等や平和は確かに重要なのだが、彼らにとっては自由よりも価値が薄いのである。この部分にワンピースという作品の根幹があるように思える。ルフィはシャボンティ諸島で「支配なんかしねぇよ この海で一番自由な奴が海賊王だ」とレイリーに言い放つし、新時代のビジョンは冒険を経て決めると宣言する。彼は自由な行動過程を重視しているのであり、所有欲や支配欲は無いのである。今後ワンピースの物語が続いていくにあたって自由の価値がきっと説かれていくに違いないと私は確信している。海賊王の残したワンピースという財宝もひょっとしたら世界をより自由にするものなのではないだろうか?

最後に一言

本作は間違いなく名作である。そしてワンピースを見る目が変わる作品でもある。自由と平等と平和なんて小難しいことを考えなくても楽しいに決まっているが、私にはワンピースの世界観を象徴するかのような作品に仕上がっていると感じた。新時代になってワンピースの世界がどう変わっていくか、今後は私も単行本で楽しみにしたいと思っている。



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