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梨と、GRAと、人生と

【 はじめに 】

自身の利益や成績、評価のためではなく、社会を構成する個人の責任として、周囲の人々や社会の為の無償の行為こそ、社会を支える大切な礎です。
そんな行為や活動を、個人単独、或いは NPO法人等を設立して、自らの資産を使い、責任とリスクを負いながら続けても、時に、無力感や焦燥感、孤独感に闇の中に突き落とされている人へ、深い共感の念と共にこの文章を書きました。


『 梨 』

毎年、夏を過ぎる頃になると、いつも、実家から地元・特産品の梨が届く。
実家は農家ではないが、父親の代からの会社を引き継ぐ兄夫婦が気遣って、箱詰めで送ってくれるのだ。

幼い頃から豊富に食べてきた果物だから、一人で全部を食べる事も出来るが、いつも食べるのは 2~3個に抑えて、残りは他の人達に差し上げてきた。
とは言っても、差し上げる相手には特定の人達を決めている訳ではない。
例えば、大阪へ通勤していた頃は、会社宛に届けてもらって、同じフロアの会社の人やビルの管理人の方、宅配業者の担当者の人、行きつけコンビニの店員さんだったりと、その年ごと、気の向くまま差し上げる先の人は変わっている。


『 梨への返礼 』

僕は、努力して得たモノであっても、それを持たない人と共有するのは当然の事だと思っている。

だから、ある時、差し上げた相手の方から、「 もらっても、良いのですか?」と尋ねられた事があったけど、自然に、「 努力して手に入れたモノでも、持っていない人に分けるのは当たり前の事だから、苦労せずに手に入ったモノならば、その殆どを他の人に分けるのは当然の事 」と答えたし、それは、どの人に対しても同じ気持ちだ。

一方、梨を受け取ってくれた人の反応は様々だ。
どの人も受け取る時には笑顔だが、次に出会った時の反応は人によって異なる。「 美味しかった!」などの一言を返してくれる人もいるが、多くは感想やお礼も無く、まるで何も無かった様に振る舞う人達が多い。
しかし、それも当然の事だと思っている・う。逆の立場だったとしたら、忘れずに必ずお礼の言葉が出せるのか?自信は無いからだ。

だから、名前さえ知らない人であっても差し上げるのは当たり前の事で、他の多くの人も同じ事をすれば世界は必ず良くなると信じている事も変わらないし、たとえ返礼が無かったりしても嘆いたり悔んだりはしない。
逆に、誠意が通じ合う人、心が響きあえる人の判断の一助にはなっているので、何もしないよりはずっと良かったと考えている。


『 GRA 』

そんな考えの僕だから、1991年に設立した、GRA でも同じ考えを通している。

設立した目的が、単に僕自身が蓄積させてきたオートバイに関係する事や考えを伝える事だから、設立当初から営利目的の考えは一切無く、NPO法人化した現在でも、登録社員の全員が全く無報酬を定款に謳っている程だ。
だから、開催したイベントの参加者を、「お客様」扱いや「生徒」扱いする考えは全く無く、オートバイライダーとして社会に対して同じ責任を負う者同士として、参加した人とも対等に接する考えでいる。
そんな考え方を貫く思いもあって、僕自身の交通費や宿泊費などを含めて、活動の為の経費の多くが “自腹・持ち出し” になっている事も気にも留めていない。

そんな僕の行動を見て、事務局スタッフの中には、イベントを企画して開催する労力や出費の多くは全くの “持ち出し” だから、「梨とは違うだろう」とか「黒字収支にするべきだ」と言う人も居る。
また、「例え、お客様扱いになっても、もっと多くの多くの人に関心を持つ事に合わせて」という意見もある。が、僕はそうは思わない。

そんな僕の行動を見て、事務局スタッフの中には、イベントを企画して開催する労力や出費の多くが僕個人の“持ち出し” だから、「梨とは違うだろう」とか「黒字収支にするべきだ」と言う人も居る。 また、「例え、お客様扱いになっても、もっと多くの多くの人に関心を持つ事に合わせて」という意見もある。が、僕はそうは思わない。
何故なら、人は、何かを得たり、何かを発見したり発明したりした時、一人だけで独占をしないで、周囲の多くの人々と共有するのが当然の事で、そういう社会的な共有活動を行なってきた人がいたからこそ、芸術や文学、科学技術などの人類文明の構築を進められたと信じているし、僕には僕だけが伝えられる事が数多くあるし、その伝え方は本人の信念に沿って進めるのが最善だとも信じているからだ。
その上で、社会に対する責任を負える能力を持つ人ならば、単に他者の行為に依存した状態に留まり続けるのではなく、自らの責任のリスクで社会への共有等の貢献活動を模索するべきだと思う。
そんな風に、周囲の人々と積極的に共有を進める人が多くなればなる程に、社会的コミュニケーションが豊かになり、人々が社会的な孤立からも救われ、より良い社会になると信じている。

しかし、そういう信念で GRA活動を行なっていても、他者に依存しながらの「不満」や「要求」も聞き入れられるべき「意見」だとしか考えられない人にも多く出会ってきた。自らの考えを実現させるために、自ら責任とリスクを負いつつ、自ら他者への共有など社会的貢献活動を行なわない人々の中からは、時に、「批判」や「中傷」へと発展する人も多く目の当たりにしてきた。それは、無責任で無自覚の、精神的な傷害行為と言う他は無い。
ただ、それでも救われてきたのは、人数は多くはないが、僕自身は何も求めていないのに、イベント用の会場手配してくれた人や運営業務のサポート、イラストやデザインの提供など、誠意ある人や心が響きあえる素敵な人々と巡り合えたのも GRA活動の大切な収穫だ。


『 人生 』

僕は、GRA以前から続けてきた、この生き方を続けていきたいと考えている。
労役だけを重ねて、利益が見込めない生き方しか見えないけど、他の人々を、ひいては社会を支えられるならば、同じ生き方を続けていきたいと考えている。
それは、日本や世界中で、一人で社会の為の活動をしている人々の存在を、GRAを始めてから気付けた事も支えになっている。

そして、充分な金銭には恵まれず、容易に他者に迎合しない生き方だから、きっとこれからも、簡単に批判し中傷し笑う人々を目にすると思う。
けれど、梨やGRAの時と同じ様に、信念を持って行動を起こして続けていけば、それを無条件で受け留めて支えてくれる人に出逢える筈だ。
とても数少ない人だけど、生きていく事を励ましてくれる大切な存在であり、「そんな人がこの世界に居る!」という強い確信と勇気を与えてくれる。
だから、僕はそんな風に人生を生きていきたいと考えているし、同じ様に一生懸命に生きている人に出逢ったら、お互いにエールを交換していきたいと考えている。

そして、そんな人が多く居るならば、日本の何処でも、海外であっても、積極的に移住をしたいと考えている。
きっと、同じ様な生き方を目指している人なら、お互いに 1mmでも身近に感じていたいと願っている筈だからだ。


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