芝浜スピンオフ小説~こまもの草紙

ここはある大店の奥の部屋。
朝早くに呉服屋の主と、その前で息子が土下座をしている。
父親は微動だにせず、息子の背を見ている。
朝帰りの息子は、父親から出るであろう“一言”を待っているが如く
顔を上げられないでいる。
彼は父親とある女のために頭を下げていた。

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前夜、若旦那は懐に四十二両の金を入れて、芝の浜を走っていた。
品川遊廓の遊女を身請けするためだ。
その金は店からくすねてきたものだった。
悪い事だとはわかっている。
しかし今はそうするのが最善の策だと思ったのだ。
おとっつぁんだってわかってくれる。
だって身請けするのは、あのお千代なんだから。

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お千代というのは、子供の頃に出会った元武家の娘。
同じ大店の柏屋へ女中奉公していた。
柏屋のところは小さい跡取り息子はいたが娘はいなかったので
柏屋の夫婦は実の娘のように思っていたし、
女中の仕事もきっちりやっていたのでいじめられる事もなかった。
元武家の娘にしては高慢なところがなく、
長屋に父親と住んでいたがそこの住人からも好かれていた。

「お千代は武家の娘らしくないなぁ…」つい口を滑らせてしまった。
するとお千代が「私もそう思います」と笑顔で答える。
話を聞くと母親が元々町人で
何かにつけ「武家の娘とはいえ、肩書きで人を見下すのは恥ずる事」と教えられてきた。
父親も「女人も勉学に勤しむべし」という考えの人であり、
若旦那より頭がいいのも筆がたつのも頷けた。
「父が城下に出た時に母を見初めて、婚儀の約束をされたと言ってました」
その話をするお千代の頬がうっすらと赤く染まる。
母親はずいぶん前に亡くなっていた。
「とても仲のいい家族だったんだね」と言うと、
「ええ、本当に」と遠い目をして呟いた。
その寂しげな横顔に、不意に抱きしめたい衝動がわき上がる。
若旦那がお千代に惚れた瞬間だった。

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しばらくして、江戸に流行り病が起こった。
その犠牲者の中にはお千代の父親も入っていた。
そして可愛がってくれた柏屋の夫婦とその子供も。
親切だった長屋の住人は手のひらを返したように、お千代から離れていった。
簡単に葬式を済ませた後、お千代はいつの間にか長屋からいなくなっていた。

流行り病の騒ぎが収まった後に長屋へ行ってみると更地になっており、
お千代の痕跡さえ残ってなかった。
若旦那は知人にお千代を見かけたら知らせてほしいと頼み、
あらゆる方法で探していたが結局みつからなかった。
若旦那が十六、お千代が十五の歳。
出会って三年目の冬の事だった。

再びお千代と会ったのはそれから五年後。
同じ大店の友人二人に誘われて、品川に遊びに行った。
「吉原の太夫も真っ青になるような別嬪さんの遊女がいるんだってよ」
若旦那はそちらの方には興味がなかった。
というより、お千代以外の女に目がいかないのだ。
まさかお千代が遊女になっているなんて思ってもみなかったから。

無理矢理連れていかれた遊廓の部屋に入ってきたのは、あのお千代だった。
化粧をして大人びてはいたが、キリッとした物腰と眼差しは変わっていなかった。
友人を追い払い、若旦那は彼女のお客になった。
抱きたかったわけじゃ…いや、少しはあったかもしれない。
しかしまた会えるとは思ってなかった女が目の前にいる。
それだけで良かったのだ。

それからというもの、若旦那は品川へ顔を出すようになった。
大半は町の様子や芝居の話、たまにかんざしや帯を贈ってもみた。
あっという間に夜が明けて、お千代と別れるのが辛くなってくる。
自分がいない時は他の男と…
それが仕事とはいえ言い様のない辛さが胸を突いた。

若旦那がお千代を身請けしようと思い始めたのは自然の流れだ。
でも自分はまだ商売を勉強している身。
持ち合わせている金子で、彼女を請け出すなんて不可能だった。
だがもう…我慢の限界だった。

ある夜、店から持ち出した四十二両を財布に押し込み、
若旦那は品川へ向かって走り出した。
小雨の降る中、芝の浜を走る。
辺りは暗く、波の音しかしない。
夜目がきくとはいえ、お千代を身請けする事しか考えてなかった
若旦那の注意は疎かになっていた。
砂に隠れていた岩につまづき、若旦那の身体は砂まみれになった。
しかし前しか向いていない若旦那は走り出す。
財布を落としてしまった事も知らずに…

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そして今、父親の前で土下座をしている。
四十二両を無くしてしまい、お千代を請け出す事も叶わぬ
自分の間抜け面を上げられないでいる。
勘当されてもしかたがないと若旦那は思った。

しばらくの沈黙の後に、父親が呟いた。
「そうか…お千代ちゃんがなぁ…そうだったか」
柏屋の夫婦と同じく、若旦那の父親も彼女を娘のように思っていた。
「で、おまえはこれからどうするんだい?」
また金を持ち出してしまうのではないか?と父親が問い詰める。
いいえ!滅相もございません!
お金を持ち出した挙げ句それを無くしてしまう。
こんな間抜けな男じゃ、お千代に顔向けができません。
「ではお千代の事は諦めるのか?」
若旦那は答えに詰まる。
もちろん諦めるなんてできない。
しかし、中途半端な自分が彼女を迎えに行けるわけがない。
どうすればいいのか、その道筋さえ見つけられずにいる…

「それじゃあ…」父親はある提案をした。
これから無くした四十二両分働いてもらう。
それには今まで以上に商売に身を入れてもらわねばならない。
おまえの仕事ぶりに四十二両の価値があると判断したら…
「この店を任せよう。後はおまえの好きにしろ」

それからというもの、若旦那は必死に働いた。
友人の誘いも断り、仕事を早く覚えるために雇いの者と一緒に過ごした。
その中で商売の面白さを知り、ますますのめり込んだ。
お千代を忘れたわけではない。逢いたくてたまらない時もある。
だが再び彼女の前に立つには、今までの自分じゃダメだと感じていた。
それとお千代と一緒にこの店をやれたらという夢もできた。
一人前の男になりたくて、あっという間に三年が経った。

奉公人からも慕われ、仕事を任せてもいいくらい商売上手になった。
元々顔はイイ方だったが、自信がついてきたせいか益々イイ男になり
町の旦那衆の中では一番の人気っぷり。
真面目で優しいし頭も切れる。
で、大店の若旦那とくれば今も昔も変わらずモテるのだ。
しかし彼はお千代以外の女には興味がなかった。
彼女を取り戻すために頑張ってきたのだ。
風の便りじゃ、太夫になれるかどうかの瀬戸際だそうだ。
あるいはどこぞのお大尽が身請けするのか?その噂で持ちきりだった。
彼女が幸せであるならそれでいい。若旦那は思った。
負け惜しみでなく、真からそう思えるようになった。
どういう風になろうが、この三年は決して無駄ではなかった。

仕事が一段落した頃に、父親に奥の座敷にくるよう言われた。
三年前、父親の前で土下座をしたあの部屋だ。
あの時とは違い、惨めだった自分はここにはもういない。
「実はな、店の事なんだが…」と父親が切り出した。
おまえが商売に身を入れてくれて本当に嬉しく思ってる。
うちの奉公人だけでなく、同業者や町の人の誰もがおまえを認めてくれている。
「だがな、まだおまえにこの店を任せるわけにはいかん」
てっきり店を継ぐ話かと期待したが、そんなものだろうと思った。
父親はまだまだ元気だし、教えてもらいたい事もたくさんある。

「でだ、おまえに新しく店をやってもらいたいのだ」
若旦那はビックリした。それは予想外の展開だった。
「私は何の店をするので?」「小間物屋だ」
うちは呉服屋。関連する品々もあるが…
「でも、私はそちらの方には詳しくはありませんが」
「ああ、だから一緒にやってほしいのだよ」「どなたと?」
父親が手を二度打ち、障子が開く。そこにいたのは…お千代!
「お千代がおまえと一緒に小間物屋をやりたいんだそうだ。どうする?」

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三年前、若旦那から話を聞いた後、父親はこっそりお千代を訪ねていた。
息子の言い分はどうあれ、武家の娘から遊女に堕ちてしまった身。
本心は幼かった頃と変わってしまっているかもしれない。
息子を思っての行動だった。
だが息子が言っていたとおり、お千代は昔のお千代のままだった。
そこで父親は昨晩の話をお千代に伝えた上で、
うちの息子が一人前になったら一緒になってくれないか?と聞いた。
お千代は若旦那には言わなかったが、
いつも親切にしてくれて昔から好きだったと。
しかし遊女の身でそれを口にするのは憚られた。
商売が商売だから、ここで逢ってる時は言いたくなかったのだ。

こうなったら話は早い…と思いきや、楼主の首が縦に振れない。
何せ売れっ子の遊女だ。ゆくゆくは太夫にとも思っていた。
いくら町で有名な大店の旦那の頼みとはいえ、金づるを手放す話に乗るはずがなかった。
そこで父親はある条件を出す。
もしまだ未熟なうちに息子がこちらに一歩でも足を踏み入れたら
この話はなかったものでいい。
ただし、息子が一人前になって店を継いでもいい男になったら、
その時は太夫を身請けする金額でお千代をもらいたいと。
今は小さい遊廓の主。太夫を請け出すには最低でも千両だ…
どちらに転んでも俺の懐は痛まない…楼主はうなずいた。

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お千代を請け出す金子を父親が出してくれた。
若旦那とお千代の目から涙がボロボロとこぼれる。
「泣くのは早いぞ、お前たち」と父親。
その小間物屋の儲けで、今回の身請けで払った分の金子を返すのだ。
「お前たちにその覚悟はできているか?」
小間物屋で千両、いやそれ以上かもしれない金額を返す。
それは途方もない額で、無理だと誰もが思うだろう。
だが、二人の気持ちは固まっていた。「はい、きっとお返しいたします」

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さて、二人の小間物屋が開店するとひっきりなしに客が訪れた。
何てったって『品川の売れっ子遊女が町で一番人気の若旦那と夫婦になった』のだから。
最初は野次馬根性で覗きにくる客ばかりだったが、
それまでの経緯を人伝で知るとなると、人情話が好きな江戸っ子気質。
おーし!力になってやろうじゃねぇかと男女いりまじりの人だかりが店にできた。
一つ一つの単価も儲けも少ないが、評判が評判を呼んで噂は大阪まで伝わり
店の行列は品川どころか小田原まで…というのは大袈裟だが
店が閉まるまで途絶える事はなかった。
江戸中の女性はその夢物語に憧れ幸運にあやかろうと小間物を買い、
男性は女性への贈り物にするために小間物を買う。
次第に夫婦の絵草紙や芝居ができたりして、ますます店は繁盛した。
千両返すなんて叶わないと思ったが、どうやらそれも夢ではなくなってきたようで。

…若旦那はお千代に聞いてみた。
「どうして小間物屋をやりたいと思ったんだい?」
すると髪に挿したかんざしと、帯を指差した。
「これがあったから、若旦那を待ち続けていられたんです」
それは前に若旦那が贈った品だった…

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江戸中が幸せな空気に包まれている中で、品川の遊廓の楼主だけは面白くなかった。
お千代を手離さずにいたら、もっと儲かっていたかもしれないのに!
小間物屋が繁盛している噂を聞く度に悔しくてならなかった。
彼女がいなくなってから店の売り上げはそれまでの半分以下。
楼主は朝から晩まで酒を飲む事が多くなった。
「あんれぇ~どうなすっただ?」店の遊女が楼主に尋ねた。
「どうもこうも面白くねぇ!」
「お千代の事だか?」「ああ、そうだ」
「なんでぇ?よかことじゃないですかぁ?」
「こっちはよかねぇ!あんな店、潰れちまえばいいんだ!」

「ああ、そういうわけだか?」「何がだ?」
「楼主さまが朝から小間物屋開いてんのは」

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