初天神~はぐれくの一純情派

「おとっつあん、そろそろ帰ろうよ」
「いや、もうちょっとおとっつぁんの凧揚げの腕をな…」
「もー!おとっつぁんなんか連れてくるんじゃなかった!」
あたりは肌寒く陽ももう暮れようとしていた。
なんと子供みたいな父親だ!と、世のお母様はお怒りになるかもしれない。
しかし彼にも考えがあっての事だった。
“いつもかかあには家やら子供の事で世話になりっぱなしだ。
天神様の日くらいは俺がこいつの面倒見ねぇとな”
彼女の自由時間を伸ばしてあげようというこの男心!
『じゃあ普段から子供の面倒くらいみてよ!』と思われるが、
何事も単純でまっすぐな彼の頭ではこれくらいしか思い付かないのだ。
だからこそ、彼女にとっては都合がよかった…
ーーーーーーー
「江戸の町の様子は?」「何にもないね。平和そのものよ」
粗末なお茶を飲みながら、古い着物を着た女と、
小綺麗で粋な着方をした着物の女が小上がりに座っていた。
彼女達にとって天神様の日は月一の会合。
ある長屋の中でそれは行われている。
一人はこの長屋に住んでる大工の女房。
もう一人はむこう町に住んでる三味線のお師匠。
二人は小さい頃からの幼馴染み…という呈で月に一回会っていた。

「…まさかあたし達がこんな風に会うようになるなんてねぇ…」と
軽く三味線をつま弾きながら師匠が言った。
「またその話?」師匠が買ってきたお菓子をつまみながら女房が言う。
「だってさ…」と自分の手土産をつまんで
「あたし達、この間までは“くノ一”だったのよ」
「そうねぇ…って、この間って言い方がもうババくさいわねぇ」

10年前までは彼女達はくノ一。
それぞれの主に仕えており、敵対していた仲であった。
二人は『優秀なくノ一』として知られ、
他の忍者から恐れられていた存在。
しかしこの平和な世にあって忍びは一部を除き、
次第に不要の者になっていった。
他の忍者は別の道に。
小さい村に隠れて農民として暮らす。
要領のいい者は大名の家来として、ある者は盗賊の下働きとして。
しかし彼女達は優秀すぎて、
平和な世になっても目をつけられる存在だった。

そんなある夜。江戸の町が大火に襲われる。
行く当てもないくノ一は必死に荒れ狂う火から逃げていた。
そこで出会ったのは今の亭主。
燃え盛る長屋に取り残された子供を助けようと
何の策もなしに飛び込んでいこうとしていた。
“何てバカな男なんだろう”と彼女は思った。
しかし身体は彼と一緒に火中に飛び込み、
子供を助けて二人で長屋が崩れる様を見ていた時には
「あたしをあんたの女房にしてください」と口が勝手に動いていた。
二人は夫婦となった。
ーーーーーーー
「まぁ、そのお陰であたしも“三味線の師匠”として
江戸に住めるようになったんだけどさ」
夫婦となったとて、お上の見張りが解けたわけではない。
そこで今の殿様は粋な計らいをする。
特例として『江戸の見張り役』を二人に命じた。
“女ではあるがその能力、無駄にするにはもったいない。
市井の者の女房なら上の預かり知らぬ情報も捉える事ができるであろう。
また三味線の師匠であるなら、その筋の情報が入るのはたやすかろう…”と。
ーーーーーーー
てな舞台設定である。
「このお役目を仰せつかって何かあった?」
「田舎大名と成り上がりの商家が
殿様を亡きものにしようとしてたのが何件かあったわ」
「アレねぇ…お粗末な計略ばかりだからすぐわかったけど」
「うちらならもっと賢く立ち回るよね」
「ホント、平和よねぇ…」

情報交換とはいえ、いつの間にか世間話になるのはいつもの事。
もし何かあった場合、
三味線の師匠から隠密の武士に伝えられる寸法となっている。
「隠密の彼とはどうなってんの?」女房が水を向けた。
「何にもないない。相手はお武家様ぁ~」
「この前“今度の隠密の彼、若くてかわいい”って言ってたでしょ?」
「お武家様だし年下は好みじゃないの!自分の子供のようなもんよ」
と言うとふぅとため息をついた。

「まさか子供が持てるとは思わなかったわよね、あの頃は」
自分達は『くノ一』と区別はされているが忍者である。
所帯を持つ事はもちろんだが、子供を持つのは夢のまた夢。
物心つく頃から忍者として生き、死ぬ時も独りだと信じていた。

「金坊、かわいい?」三味線の師匠が女房に聞く。
「当たり前でしょ?お腹を痛めた子だもの」
「そっか…そうだよねぇ」寂しさ漂う旋律を爪弾き、
あたしに子供を産む度胸はなさそうだわと独り言のように言った。
「昔のあたしだったら、まず子供を狙ってるわね…」
途端、女房の表情がくノ一現役の頃と同じく険しくなった。
「嘘よ、冗談。お上よりあんたの方が恐いもの」
笑いながら「何にもないし、あたし帰るわね」と長屋から出ていった。

彼女が帰って夕暮れ時の、長屋の中で一人。
誰であれ家族に手を出したらあたしが許さない、と女房は本気で思った。
彼女がお上の命を受けたのは亭主と子供を守るためなのだから。
ーーーーーーー
「かぁちゃーん、ただいまぁ!」
「けぇってきたぜ、飯の用意はできてるか?」
勢いよく長屋の戸が開き、二人が帰ってくる。
粗末なお膳の上には、既に晩ごはんの用意がされていた。
「ちゃんとできてるわよ!あたしを何だと思ってるんだい」
「いやさすがだねぇ、俺の女房になるだけのこたぁある」
「世辞言っても、おかずは増えないわよ。増やして欲しかったら稼いできな!」
「いやはや、こんなおとっつあんで面目ねぇ」
「こいつ!そんな口どこでおぼえてきやがった!」

いつものように二人が帰ってきて、お膳を囲んで一緒にごはんを食べられる。
彼女にとって、これは何物にも代えられない幸せそのもの。
くノ一の頃は想像もできなかった暮らしだ。
家族の幸せのために、彼女は毎日江戸の平和を願い守っている。

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