芝浜スピンオフ~ご隠居さんと魚屋のおかみさん

どうしたらいいものか…

娘の子供が病気で寝込んでいる。
熱がなかなか下がらなくて、今にも死にそうだという。
家には薬を買えるほどのお金がないのだ。
わしだって隠居と言われているが、それほど裕福な暮らしをしているわけじゃない。
娘もそれを知っていて、わしに金を貸してとは言わない。
お互いがお互いをわかっていて、だからこそ何もできないのが口惜しかった。
娘は自分が体を売って金を工面すると言っている。
わしは娘にそんな事をさせたくない。
しかし、孫の命を助けたいのだ。
どうすればいいのか…

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何とかして財布を隠さなきゃ!
四十二両なんて大金、何で神様はあの人に拾わせたんだろうか!
また酒浸りになって、贅沢三昧するに違いないのだ。
そのうちお上に見咎められてお縄を頂戴するはめになる。
私はあの人に早く真っ当な人間に戻ってもらいたいだけ。
さっきは拾ったのは夢だと言い聞かせたが、ここには隠せる場所がない。
だからといって近所の人に預ける事もできない…

そうだ!ご隠居さんのところなら!
あの方なら人格もしっかりなさってるし、ちゃんとしてくれるはず。
今後の事も含めて相談しにいこう…

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預かってしまった…
わしだって見た事のない金子の入った財布を。
近所に住んでる魚屋のおかみさんに無理矢理押しつけられた。
「ご隠居さんなら信用できるから」と。
四十二両なんてどこのどいつが落としたのだ!うらやましい!
さっき番屋にいた同心に聞いてきたが、誰も届け出てないそうだ。
落とし主にとっては、はした金なのかもしれない。
「ご隠居さんなら信用できるから、落とし主が出てくるまで預かっておくれよ」
いつもならこんなどこから出てきた金なんぞ預かりもしない。
預かったとしても、そんな怖い金には手もつけない。
ただ、今のわしは違う。
金を心の底から欲しいと願っている。
この金さえあったら、病気の孫の薬を買えるのだ…

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あの金を預かって一年経った。
落とし主からの申し出はなく、これは私のものになった。
いや、正確に言えばこれは魚屋のおかみさんのものだ。

あの時預かったのは四十二両。
今手元にあるのは四十一両。

どうしても孫の病気を治したかった!
おかげで今は外で元気に遊べるほど丈夫になった。
でも預かったお金を勝手に使ってしまった事には変わりはない。
正直に話すしかない。
この爺にお金を稼ぐあてもないし、奉行所に訴えられてもしかたない。
わしの命より、孫の命の方が大事だ。

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あのご隠居さんがそんな事になっていたなんて!
元々私のお金ではないし、落とし主も現れないのであれば
人助けになってかえって良かった事だ。
「このお金が役に立ててよかった」と言ったら、
ご隠居さんの目から大粒の涙が…

ただ私の我慢が限界だった。
もうあの人に隠し通せる自信がない。
あれは夢なんかじゃない。本当に四十二両拾ったんだと言いたい。
今はあの人も真っ当に魚屋をやってくれて、
店も大きくなったし奉公人も雇えるようになった。
あの人は私が考えていた以上に働いてくれて、生活も楽になった。
だから財布の事を隠しておくのが苦しくなってきたのだ。
嘘をついたのは悪かったと、今だって思っている。
その罪悪感といつばれてしまうかと怯えていた三年間だった。
だからご隠居さんのところに預けていた四十二両を受け取りに訪ねたのだ。

ご隠居さんの罪はやむにやまれない上での話だ。
責める権利は私にはない。無理矢理押し付けて三年持っていてくれていた。
一両くらい、子供の命を助けるためなら…
あの人も一両減っていても、わけを話せばわかってくれる人。
でもそれは財布を拾ったのが本当の事だと知っていたなら、だ。
ずっとあれは嘘だと騙していた。
あの人はいい人だとわかっている。
でもその四十二両から一両減っていては打ち明けられない。
減った一両があの人を信じる気持ちに影を落とすのだ…

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本当におかみさんには申し訳ない事をした。
それはそうだ。
四十二両もの大金を拾った事を夢だと、嘘を言い続けていたのだ。
あの頃の旦那は仕事もせずに、酒を飲んでは寝ての毎日だった。
番屋に届けては嘘がばれるし、
わしに預けると決めたのもギリギリの決断だったのだろう。
もしその夢の金が一両減って返ってきたら?
どんな理由であれ、その一両がおかみさんの愛情を疑うきっかけになるだろう。
とはいえ、一両なんて大金を手配するあてなんぞない。
あったらこんな事にはならなかった。
ああ、どうすればいいのだろう…

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「景気のイイ話ってぇのはないのかね?」
「あったらこんな辛気くせぇ顔はしてねぇよ、お互いにな」
「ハハッ!そりゃあちげぇねぇ」
「そういや聞いたんだけどよ、あそこの長屋に居座ってる男」
「あの乱暴者か」
「聞いた話じゃ、ずいぶん貯め込んでるらしい」
「店賃か?」「そうじゃねぇよ、金だよ金」
「何ぃ?自分とこの店賃も支払わねぇのにか?」「ああ、出すのはイヤらしい」
「大きな図体してやがるくせに、江戸っ子の風上にもおけねぇな」
「最近富くじが当たったようでよ、賭場では専らの噂だ」
「何であんな乱暴者に大金を与えるかね?神さんは」
「世の中、うまくいかねぇな」「まったくだ」

そんな話が長屋の連中の間に飛び交い、隠居さんもそれを聞いたのだった…

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ある長屋の店子の前を、お使いものを持った小僧が通る。
「おい!何だ?それは」
小僧は思った。イヤな男に見つかったと。
「いやあの、これは大家さんへのお届け物で…」
言うが早いか、男はその荷を奪った。
中身をみて、ほぉ?大家にはもったいねぇ!俺が食べてやると言っておけ!
やめてください!これは隠居さんからの…と小僧が言うと、
うるせぇ!死に損ないのジジィは目刺しでも食ってろ!と自分の長屋へ入っていった。

「ほぉ…ずいぶんな贅沢品じゃねぇか…どれどれ、さばいて俺が食ってやる…」

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あの男が亡くなったと、長屋では大騒ぎだった。
店賃を支払わない事で悩みの種だった男がいなくなったと大家は喜んだし、
ゴミ同然の品物を買わされ続けた気の弱い屑屋も
これでまともな商売ができると家族と一緒に泣いた。
他のものも同じようなひどい目にあわされていたので、
その死を悼むものは彼の兄貴分くらいだった。
誰もが彼に死を与えたものに祝福を捧げた。

「やっぱりらくだも人間だったか、フグの毒にあたって死ぬなんてなぁ…」

彼の住んでた部屋の中を掃除したが
噂になっていた大金はどこにもなく、あれは誰かが流したデマだったかと
次第にその話も忘れ去られてしまった…

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らくだが金を貯め込んでいたのは本当だった。
彼が死んだ後の大騒ぎの最中、人がいない頃を見計らって長屋に忍び込んだ。
タンスも火鉢もないガランとした部屋。
誰かが詮索した後があったがたぶんあの兄貴分だろう。
わしは教えてもらった場所から金の入った袋を取り出した。
一両もなかったが、少し足せばそれくらいになった。

「隠居さん、見つかったかい?」
ああ、やっぱり竈の中に放り込んであったよ。

前に偶然見ちまったのさ…煮炊きもできないらくださんが
そんなところにいるなんておかしいから
もしかしたらそこへ隠してあるんじゃないかとね…とおかみさんは言った。

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隠居が大家あてに、ふぐのお使いを近所の小僧に頼んだ。
大家の家はらくだの前を通らないと行けない。
らくだがふぐを奪う事を見計らっての計略だとは誰も気がつかないだろう。
小僧もふぐを売った店の主人も、ましてや大家も誰も知らない。
知っているのは隠居と魚屋のおかみだけ。
長屋の乱暴者がいなくなって、二人は無くした一両を手にした。
少しの憐れみと良心の呵責もあったが、みんなが幸せになったのなら
らくだの死は必然なのだと二人はそう思う事にした。

この内緒事は墓場まで持っていく。でも前より辛くはない。

これは二人で分け合うものだから。

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