関心がある振りをしてくれたのはやさしさだったと今ならわかる

ある好きな作家さんが話していたことの一つに、深い関係性を築く前に「あなたの呪いはなんですか」と聞いてしまうような悪癖のことがあった。

そこに至る経緯、根っこはまったく違えど、結果だけは自分も一緒だと思った。

人間関係において、少しずつ共有した時間積み重なっていくあのプロセスが苦手だ。知人と友人の境界線を踏み越えるには確かにそれが必要なのは分かる。自分の足元に残された居場所を見ても、共有している時間の絶対量が、他人になってしまった人たちと比べて格段に多い。

でも、そのゆったりとした相互理解の醸成を、自分は億劫で面倒なものだと感じてしまう。

すぐにでも、相手の呪いについて、胸につっかえたままの石について、見ないふりをしている十字架について聞きたくなってしまう。


好きな作家さんの根に何があるのかは当然分からないーー頭の中を覗いている気がしても、当たり前に赤の他人でしかないーーけど、感覚的に、自分のそれはもっと悪質だと感じる。

自分が呪いについて聞きたくなる理由を正直に言えば、物語の消費に対する欲求に近い。
心に大きな船を飼って、ひとを受け入れて愛したいからではなく、第三者として、対岸の火事をストーリーとして観測したい。そういう経緯も尊重もない、暴力としての関心・消費欲求が、自分に確かに存在している。


ただし、幸いそれが、発露してしまったことはない、と思う。

自分とコミュニケーションを取っていやな思いをした人は大勢いるだろうけど、それはエラーでもなんでもなく、地のぼくがだめなだけだ。傲慢に他人を消費しようとしている自我は、多分なんとかしている..んじゃないかな.......。



振り返ると、自分を分かろうとしてくれた人が確かにいた。言葉としてそれを伝えてくれたこともあった。

そういう人たちが、自分の曲の歌詞について触れてこないことを、短歌について掘り下げてこないことを、ぼくは彼ら、彼女らを矛盾だと責めたくなったときがあった。

今せかいに対して大声で言いたいことは、すべて曲になって、うたになってそこにあるのに。あなた視点がどう見えているのか知りたいと言ってくれたじゃないか、と。


改めて文字にすると、今すぐ全員と絶縁してハワイに逃げたいくらい恥ずかしいしみじめだ。自分も他人をちゃんと分かろうとしたことなんかろくにないくせに、都合よく外から分かってもらいたい気がしていた。それが事実だ。


ただ、年齢を重ねるについてようやく、それをやさしさだと思えるようになってきた。あるいは、そう思うようにした。

ひとりずつで生きていくために適切な距離感があって、それをゆるやかに守るのが、続けられる人間関係らしいし。ほかでもない自分自身も、ひとの心の暗いところには、安易に立ち入らないよう、尊厳を侵すことのないようにしているわけだし。

関係値の深い人ほど、ぼくを尊重するために、心の深いところは見ないふりをしてくれているのかもしれない。あるいは、暴いたとて責任の取れない荷物について、静観を貫いてくれているのかもしれない。

実態がどうあれ、やっと自分のさみしさ(この文脈だと理解されたい事業部創作課が担当者ですかね?寂しさホールディングスの話です)や孤独感を赦せるようになってきた気がする。


"君ごと背負うこともできるよ"と言われるのをただ待っていても、多分何にもならないんだろう


そういう背景があって、もう外科的な一撃を、現実的な解として期待することはなくなった。長年何かを待っていた気がするような、何を待っていたかも分からないような感覚だけ


でも、最近曲を聴いてくれている人がいて、それを伝えてくれた人がいて。
その人の視界のどこかに、あるいは視線のその先に、自分が分かってほしかった気持ちの片鱗が映っているかもしれないと想像しました。置いてきた気持ちの、ちょっとした残り香くらいは漂っているかもしれない。

究極、その結果や事実については確かめる術もないし、拘らないけれど、ただその少しあたたかい可能性があれば、まだまだどこまでも創作を続けられる気がする


もうすぐリリースされる新曲たちは、積もっていた罪悪感とか、耳元でずっと向けられる怨嗟の声とか、幼稚な希死念慮とか、そのすべてをくべて冬らしい、寒くて息苦しい作品にできたと思います

こんな形でしかごめんねが言えなくてごめん。
ずっと謝りたかったし、これからもずっと謝りたいけど、それが許されないのは分かっているのでうたいます

関心がある振りをしてくれたら嬉しい、
よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?