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一冊書き終えて初めて言葉になる言葉

 とあるスタートアップの経営者から、開発中のバーチャルオフィスツールのデモを見せてもらう機会があった。
 この記事は、しゃべりながら大事なアイデアがいくつか出てきた気がするので、メモのつもりで書き始めた文章なのだけれど、書きながら、新著の根底にあるテーマに触れるような話だなぁと思い始めた。本の内容の事前予告でもなければ、解説ですらないんだけれど、とにかくなにか深い関連性のある話だと感じた。
 不器用な書き出しだけれども、最後まで、書いておく。

デジタル(量子・記号)とアナログ(連続・身体)は二項対立なのか?

 バーチャルオフィスツールといえば、とある製品をゲスト利用したことがある程度の知識しかないが、画面上にオフィス空間のようなマップがあり、アイコンの近くに行ったら話しかけたり雑談ができて、会議室に入ったらMTGができて、あたかもオフィスにいるみたいな感覚が、モニタ上で再現できる、というものだ。
 もちろんこうしたツールが有効な局面があるだろうことは疑わないが、自分には、こういうツールは、あんまりなじまない。ツールの先にある組織に、拘束されている感覚があるからだ。ツールがどう、という前に、組織になじまない、という。

 それはそれとして、世の中、なんでもかんでもデジタルに落とし込めばいいというわけではない。人間には身体性というものがあり、その本質はアナログである。
 正確に言えば、脳神経活動自体はデジタルだし、最新の学説によると、それを支える物理現象も(時間も含めて)量子化されている。無意識あるいは一次感覚レベルでは高い精度で連続体と非連続体は認知仕分けている。その総括として営まれる意識活動は連続という幻想を描いている。そのうえで、言語的分節化の作用によって世界を非連続的にとらえている。
 まぁ、いまはそんなに厳密に考えるとややこしいので、単純素朴に人間の意識は、世界をアナログ的(連続的)なものだと捉えている、という見立てをする。

 人間が人間をアナログな存在だと認識している以上、デジタルに対する忌避感は、本質的には、人間にとっては自然なものである。デジタルデバイスは、どう見ても自然物でなく、人工物である。健康に良くなさそうである。
 デジタル化だ、DXだと国も企業もやっきになっているが、多くの人は心の底では醒めている。

 しかしもちろん、デジタルを否定してしまっては、元も子もない。現代人は、デジタルの恩恵なしには存立できない。
 稚拙なデジタル導入や、この時代に紙と郵便で手続きを強要されたりすると、なんだかなぁと誰だって思う。

 デジタルツールが(というかツール全般がそうなのだが)人間の能力を制限してしまうのか、拡張するのか、この論点こそが、クリティカルなのである。つまり、ある意思を抱いたときに、それが実現されるためにコストが最小化されていること。明らかに優れた手段が他にある(ように見えている)のに、そうなっていない場合に、人は多大なるストレスを感じるようにできている。
 実は、このあたりが、技術と人間の折り合いにおける難点である。サイロ化とか局所最適とか言われるが、確かに「コストの最小化」はスコープの捉え方によって、評価が全然異なる。

 では、どう考えると良いか。デジタルツールは(というかツール全般がそうなのだが)、ギターの「アンプ」みたいなものである、という認識に立つのが、第一歩だ。
 アナログな発信源から、量子化された情報を取り出し、届けたい相手に、出したい音を増幅させる。つまり、身体性を拡張するということ。デジタルデバイスを、人間の自然性や身体性に対立するものとは、捉えない。人間は道具を「比喩」を用いて理解し、活用する。
 例えば杖や包丁は、紙と鉛筆は、身体能力や認知能力を拡張してくれる。デジタルデバイスも、それみたいなものだ、と、とらえる。

 現代社会は、例えるならば、生音とアンプリファイされた音がごちゃまぜになっていて、不協和音化したコンサートみたいなものだ。
 角を矯めて牛を殺す、という。わずかなメリットを生み出すために、大きなデメリットを生み出してしまうことが多いのは、考えものである。

 コンサートでは、多数の音源が用いられる。それらを束ね、統括するミキシングシステムによって、観客は最適なバランスで音を享受する。例えば少し前にテレビで偶然みたんだけど、サカナクションは、ちょっとどうかというぐらいに、顧客の音像体験を追求してきたそうだ。客席の位置と音波の速度から、スピーカーごとの音の遅延も含めての細かな調整。
 普通は観客は、箱の大きなライブでは、視覚と聴覚のズレをもとに脳内で補正をかけ、リアルタイムで再構築をしながら「生演奏」を楽しんでいる。サカナクションはそのストレスを除くためのデジタル技術への投資を惜しまない、とのことだった。

 あらゆるデジタル企画者及び技術者は、参考に(あるいは目標に)するべきであろう。

 デジタルとアナログを二項対立させてしまうと、大事なことを見誤る。

 道具が、人間の機能を拡張させるものであるならば、「使い勝手」が「使用コスト」を上回って始めて、存在意義を獲得できる。これは、価値を生み出そうとする人間にとって極めて重大な命題である。
 現代においては、人間は、デジタル・非デジタルも含めた社会を理解するために、多大なる労力を費やしている。不要不急のものは、理解のためのコストが超過すると、見向きもされなくなる。それを用いざるを得ない場合に強い不満とともに、学習は実行される。

プロジェクトにおける「デジタル的なもの」と「アナログ的なもの」

 オンライン化が進んで、プロジェクト管理のあり方が変わったか?と、質問されることがある。

 いつも答えることは同じだ。本質はなんら変わっていない。しかし、手段のうえでの便利さと不便さがそれぞれ際立ったので、手段のうえでは大きな変化が訪れた。

 特に、オンラインコミュニケーションが面倒なのは、「送信者が許可した情報しか相手に届けられない」ということだ。情報を受け取りたい側ももどかしいが、情報を送りたい側も色々と気を遣う。何を送るべきで、何を送らないべきか。どうやって「送ってほしい」と依頼したらよいのか。送ったものは、相手を満足させているのか。
 同じ空間をともにすると、そこには「気配」や「場」が生まれる。別に届かなくてよい情報は空気の壁によって遮断される。届くべき情報は、共同無意識とでもいうべき媒介物を通して、確実に、届くべき相手に届く。(まぁ、個人的には、そういう無言のやりとりが煩すぎて、会社に行くのは本当に嫌なものだったのだけれども)

 身体の不思議であるが、実際、そうなのだ。

 プロジェクトのスコープを定義して、タスクに分解し、台帳に登録する。消化するためにかかった時間を記録され、成果物が売上を生み、評価され、賃金に換算される。
 これは、人間やその活動を量子化する営みである。量子化された情報は、当然のことながら、デジタルツールに転写可能であり、デジタルツールに転写された情報は再利用性が極めて高い。
 実に結構な話であり、文句を言う筋合いはないのだが、でもやはり、これらは「管理」を最上位要求においた世界観なのであり、それを選択した時点で、人間やその活動における「生命」みたいなものを少しだけ、殺してしまうように感じる。

 その対極には、言語化しえない感情やインスピレーション、未知やカオスとの遭遇があり、シナリオを超えて育っていく人間やその活動がある。

 前者は、「引算」「割算」「義務」「お金」「マッチョ」「情報」「死」の世界である。
 後者は「足算」「掛算」「創造」「工夫」「喜び」「活動」「生」の世界である。

二項対立や二者択一に絡め取られないために

 世界経済が円滑に行われるためには、前者なくしては立ち行かない。一方で、後者なくしては経済を生きる意味が失われてしまう。

 ここにきて急に結論となるが、そして一番大事な話なのだが、件の経営者と対話していたなかで、両者は断絶したものではなく、実は、連続的なものなのだ、と思ったのである。生きているうちは、二者択一に陥ってしまっては、だめなのだ。絶対に。

 来週発刊となる新しい本を書いたのは、ここで書いたようなことを、書きたかったからだったような気がする。書いていた当時は、ここまで整理もできていなかったのだけれども、多分、この一冊を書きながら、自分の心のなかに去来していたのは、こういう思いだったような気がする。
 そして、こういうことは、書いている渦中では、言葉にはならないものである。
 一冊、書いた先に、見える景色というものも、ある。

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