ノルウェイの森、「したい」僕と「すべき」のキズキ

久しぶりに、ノルウェイの森を読み返して、まだ上巻の途中、直子に山に会いに行くあたりなのだけれど、突然何かが氷解した感じがあって。書いています。まだ、うまく文章にできなくて、すみません。

初めて分かったのが、キズキという人格は、「僕」の、文字通りのアルターエゴなんだ、ということ。

人間には「すべき」と「したい」の二つの思考システムが並行してぐるぐる回っている。

「すべき」はキズキで、「したい」が僕。高校時代のキズキの自殺とは、語り手のなかで「すべき」のシステムが損なわれてしまったということ。永沢さんという形で、それはより強固な亡霊として蘇る。

社会とはルールのもとに運用されるゲームであり、利得を得る可能性から目を背けるなど、ナンセンスである、人間は自分に与えられた役割を全うする義務がある。そんな「すべき」の内なる声に対して、それは間違っている、どこかがおかしいと拒絶する「したい」の思考システムがある。

直子が愛したのは「すべき」の自分であり、「したい」の自分はその対象ではなかった。

あなたは、心を閉じる殻を開こうと思えば開ける人だと、レイコさんは言う。開けば、回復するのだ、と。

直子が阿美寮で療養するのは、分裂した心が統合すれば回復するのではないか、と、無意識のうちに考えるからだ。穏やかな阿美寮で、規則正しく健康な生活を暮らす、不完全な世界の暴力的な矛盾から避難して、心の中で思うことと、口に出す言葉が一致できる自分を取り戻す。それが治療なのだ、と。

しかし、もちろん、ときに避難は必要だが、避難した先に桃源郷が待っていては、くれない、そこには突然、井戸が口を開けている。

回復とは、矛盾が存在するという事実を受け容れる心の開き方にある。

きっと、そうじゃないかとの予感を、37歳という年齢を迎えて、うっすらと得ている。でもうまくそれをすらすらとは言語化できない。そのもどかしさがノルウェイの森という小説を書かせ、そのもどかしさ自体がテーマでもあり、回答でもある。

そんな構造になっているのではないか、そんな風に思った。


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