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時代に先駆け続ける

 久しぶりに、TNGパト首都決戦を見返してみたら、意外なことに、すごく良かった。
 劇場公開された当時は、そんなにピンときていなかったのだった。ディレクターズカット版が公開されて、なんとか溜飲を下げたが、それでもモヤモヤした感覚があった。

 配信だと、どんなに探してもプロデューサーズカット版しかなくて、わりと泣く泣く妥協して見たんだけど、当時よりも全然良く見えた。
 非常に不思議な感覚である。

 おそらく、時間が経過したおかげで、良さが浮き彫りになったのだと思う。

 当時は、この映画に(おそらく、世間みんなが)カタルシスを求めていたのだ。しかしこの映画は一貫して、不全感を描き続けていた。
 当時、監督の実写を手掛ける手腕が足りないとか、アニメを放り出して女優とじゃれあって堕落してしまったとか、色々と言われていた。あるいは、日本映画産業の構造的劣化が語られていたりもした。
 そうしたあれこれのせいで、出来が悪いから、この映画を見ても、スッキリしないのだ、と。

 否定できない面が、必ずしもないとは言い切れないのがわかりにくいところなのだけれども、しかし、本質は、そういうところには、なかった。
 この映画の不全感とは、この社会における、現在という時間そのものだったのだ。
 なにひとつ思い通りにならない、不自由で停滞した、この私たちの社会。
 それをこそ、描いていたのだ。

 スリルがあってサスペンスがあって、大活躍、カタルシス、そうした映画では、映画としてのアクチュアリティを、体現できなかったのだ。おそらくそれを、監督自身は、理解していたのではなかったか。
 その痕跡が、ディテールのそこかしこに残されていた。

 公開してから7年、時代の不全感、停滞感、不自由感は深まる一方である。時代がここまで進行しなければ、自分は、この映画が、わからなかった。
 それは自分ひとりだけのことではなくて、観客のほとんどがそうだったんじゃないか、という気がする。

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