Mobileが生み出すZombieたち
ソウルの事故のことを考えると、スマホ時代という言葉を思わざるを得ない。利便性だけが極端に追求されている時代。なにか特別な生を生きたいと思いながらも、果たされない時代。スマホの映像が行動を駆り立てる時代。行った先で自分も映像だけを撮影して、終わる時代。特別な場所、特別な時間を求めて行動して、結果、凡庸な映像しか獲得できない時代。生み出すとか、創造するために、自分のエネルギーは節約していたい。映える景色に立ち会うことだけを、していたい。主体性が根本的に欠如してしまい、ひどく虚ろな精神の荒涼が広がっている時代。その結果、10万単位の人間が無目的に集まり、仮装するでもなく、ただ彷徨い歩くだけのハロウィン。その姿は、ほぼZombieそのものである。10万人のうち、おそらく98000人は、仮装することなく、化けておおせたのだ。
企業組織も同じである。イケてる会社に乗っかっていたい。そのために就職試験だけは頑張る。入社したらその後は、ひたすらにコスパのよい生活を追求する。そこには創造の喜びとか生の充実はない。生きているか死んでいるかわからない。ただ、イケてる感じに乗り遅れていたくないのだ。
心ある経営者は、そんな主体性のない組織を目の当たりにして、心を痛める。痛めた結果、98%の経営者は、金でそれを解決しようとする。金で雇われた改善屋は、良くて対症療法、次点が延命治療、ほとんどの人がやっているのは幻覚剤の提供である。根本治療をしようという人間が処方する薬は苦く、手術は痛く、リハビリはキツい。
つまり、ハロウィンと企業組織は、互いに共鳴しあっているように、見える。主体性を喪失し、ただ死なないための虚しい生にしかしがみつくことができない人形たち。
そんなふうに見立てると、フィクションがいかにリアルを先行してきたかがよくわかる。押井守がそうであり、冨樫義博がそうであり、小島秀夫がそうであり、宮崎駿がそうであり、尾田栄一郎がそうであり、村上春樹がそうであり、高橋源一郎がそうであるように。
いや、すこし違うか。きっとフィクションには二種類、ある。ひとつは、すでに起きたことを理解するためのフィクション。もうひとつは、これから起きることを予感させるためのフィクションである。
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