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自利を利他に導くロールモデル

 昨日、エンデのモモにについて書いたわけだけど、引き続きそこからまた、色んなことを考えている。
 モモがみんなを人知れず救済する、というクライマックスは、作品として必要だからこしらえたお話であり、現実社会においては、そういうスーパーヒーローみたいな人がやってくることは、基本的には、ない。
 つまり、現実社会というやつには、バッドエンドしか用意されていない。

 そんなことでは救いがないじゃないか、というかもしれないが、案外、寿命によって人類は救われているのかもしれない。

 それじゃああんまりだ、生きているうちに救われたい、と、まぁ、普通は誰もが考える。

 モモのようなスーパーヒーローに救ってもらいたい、では、いつまで待っても救われない。そうではなく、自分自身がモモになって、自分や自分の周囲を救う人になろう、と、決意することが、おそらく、大事な観点である。
 なんだか説教くさい話に見えてしまうかもしれないが、実際そうだよなぁ、と、最近、思う。そしてそれが意外とそんなに悪くないものだという気もする。

 ちなみに、原始キリスト教や原始仏教、あるいは原始儒教など、宗教の始まりで語られていたことに触れていくと、この自利から利他への発想の転換が通底していることがわかる。
 おそらくこれらの時代は人類の認知能力進化や経済システム深化のうえで、重要な転換点にあったのだろう。同時多発的に、類似したコンセプトが生まれ、広がったのには、環境要因的な必然があったはずである。

 問題は、その頃に語られた生きるための知恵が、人間のエゴとの干渉により、実践が簡単でない、という話だ。つまり、利他とは自己犠牲であり、ゼロサムゲームである、という理解である。

 原始宗教の創始者たちが語ったのは、そういうことではない。自他を互いに活かすためにどうするか、を、実は、語っている。つまり、エゴの抑制でなく、複数のエゴを上手に止揚するための知恵なのだ。ただ、それを行為の系列としてマニュアル化すると、表面的には我慢とか忍耐に見えてしまう。また、それが経済に組み込まれることで権威化し、制度化し、俗化することで、既得権益と腐敗の温床にもなる。

 そのあたりに大いなる困難が横たわっていて、だからこそ各種の宗教は常に見直され、再発明もされてきた。

 希望があるとすれば、その困難に気づき、乗り越えるためのロールモデルもまた、人類は営々と気づきあげてもきた、という事実だ。フィクション、ノンフィクションに限らず。ロールモデルとはキャラクターであり、キャラクターは常に物語とともに語られてきた。

 聖書やお経も、言ってしまえば、そうした試みの遺物である。
 ロールモデルは有効だが、よくある立志伝や偉人伝の世界に閉じ込めてしまうと、途端に、力を失ってしまうのが難点だ。ガンジーの伝記を読まされて、こんなふうになろう、みたいなことを言われても、そりゃあ、誰だって、いい話だとは思うが身近には感じない。

 物語は常に語り直されることが必要なのだろう。そして、商業主義や娯楽のなかに、そうとは主張をしなくても、素晴らしいロールモデルが語られていることもある。そういうアプローチにこそ有効性があるような気がしている。

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