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お金の向こうに、人は本当にいるのか?

 書籍「お金の向こうに人がいる」を読んだ。読んで、面白かった。バリバリの外資金融出身者が、お金の本質を考察し、平易に解説する。国債の話や国の経済破綻の仕組みを解説してくれる。その先には明確なメッセージがある。本来お金とは、利己的なものではなく、公共性を実現するためのものだ、と、解き明かす。
 まずもって、本の企画としての完成度の高さが印象的である。テーマと著者の経歴の必然性。語り口とメッセージ。デザインも良い。売るべくして売るぞ、という作り手の意気込みがビンビンと伝わってくる。

参考になった半分、不満が残ったもう半分

 内容については、参考になったと感じた部分と、疑問が残った部分が半々だった。
 参考になったと感じたのは、以下の点である。

・税金と通貨の関係についての話
・120兆円の現金、1200兆円の預金の話
・預金と借金が表裏一体の話
・投機と投資の違いの話
・お金の循環と政府の役割の話

 これらの話については、純粋に自分にとっては専門外の話であり、内容の当否を論じるのは非常に困難だ。だが、著者がその分野の専門家として、考えて、自分の言葉で表現しているような感触があったし、説得力を感じた。

 疑問が残った(ストレートに言うと、不満に思った)のは例えば以下の話だ。

・食べ放題の話
・ピラミッドの話
・ワインの話
・マーケティングの話

 つまり、著者の専門である経済のマクロな話や原理的な話については大変に納得したのだが、その主張について例示したり、補強したりするために書かれた内容が、どうも納得できないことばかりなのだった。
 これをどう解釈したら良いのか、迷っている。マクロと原理が良ければ、それでいい気もする。しかし、ミクロな話やディテールが不確かであることは、書籍全体の説得力を損なわないだろうか。

 この文章は、そのモヤモヤを解消するための独り言である。

価格は本当に原価と人件費の合算なのか

 著者は、焼肉や洋服や家やワインの値段について語る。例えば焼肉屋を例にして、対価とは生産プロセス(牛を育てたり肉を流通させたりする活動)における「人件費の総和」であるという。これは、そう言われるとなんとなく正しく見えるが、少し視点をずらすと、途端に疑問の渦に飲み込まれる。

 つまり、大量生産品における限界費用的な世界観で見ると、筆者の説明する通りである。しかしそれはこの世を分かりやすくするための近代的なモデルをベースとした理解である。
 虚心に現実を眺めると、というか、MQ会計学的な、ポスト近代的なモデルで捉えると、全く違う様相を呈するのである。

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 生み出すという行為は、それをしている最中に人件費を生じるわけではない。人件費とは、財やサービスを生み出し、それを対価を定めて取引した結果、生じるのである。

 いやいや、パートやアルバイトは、仕事と人件費が同時に発生するじゃないか、と、いうかもしれない。それは近代的な大量生産モデルと現実が似通っているがための錯覚である。
 彼らは生み出すサービスをその場で取引しているのである。

 生産と対価と効用の関係が一番わかりやすいのは、例えば、本である。本を書くということは、財を生むことである。
 しかし執筆は時給でするものではない。著者の報酬は、本が売れた後で発生する。読者がその本を買って読むことで、お金がやってきたのである。読者はなぜそれを買ったのか。コストよりもメリットが上回ると判断したからである。
 メリットとはなにか。それを読むことで気晴らしになったり、そこで得た知識が仕事の役に立ったり、読み終わったあとでブックオフに売り払うことである。
 コストとは何か。購入するときに支払う対価や、読むための時間を確保することや、買った本を保管することである。

価格は(効用でなく)相場感と希少性で成立するはずではないか

 紙に刷って製本し、トラックで運んで読者に届けるビジネスモデルがあって、そこに一定の歩留まりや廃棄があることも見越して、たまにヒットが出ることもあったりするなかで、また本以外に似た効用を発揮する財やサービスとの競合のなかで、一冊の本に対する値段の相場が形成されていく。
 ちなみに、例えばここに、電子出版という、量産・流通が飛躍的に容易なビジネスモデルが生まれると値段の付け方は全く異なることになる。kindle unlimitedのように、膨大な数の本が固定費で読めるようになったりもする。商品価格の相場感とは、製造プロセスや製造技術、同一市場内の競争環境、類似効用市場の競争環境など、各種の生存競争の結果、形成されていく。

 価格とは、希少性に正の相関を持ち、同時に、製造流通インフラの洗練度に対しては、逆相関する。
 報酬とは、その仕事をするなかで、生み出した財やサービスを売った金額と、その過程で仕入れに充てた金額の差分なのである。

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 著者は、財やサービスを消費するためでなく投機するためにする取引や、マーケティングやブランディングによって、本来の適正価格から逸脱させられることがあるという。
 確かに、例えばワインにはそういうイメージがある。葡萄を育てたりそれを発酵させたり、ビンに詰めて流通させる行為には、さほどの違いがないのに、一本で一万円もするのがあるかと思えば、千円のものもある。これは、マーケティングやブランディングという恣意的な操作によって、あるいは転売などの投機的な行為によって、不当に釣り上げられているのだ、と。

 しかし、マーケットとは面白いもので、価格における正負の相関による引っ張り合いの結果、相場感というものは、そのものが持っている品質、すなわち「絶対値」的な価値に応じて、わりと適正な値に収束するのである。
 確かに例外的に本来の実力と価格が多少外れることもあるけれど、それは過渡期であったりバブルであったり、短期的な要因による。長期で見ていくと、価格と価値の間にあるギャップは、埋まっていくのである。これは、驚くべき人類の集合無意識の賜物とも言える不思議な現象なのだけれど、ワインを2年かけて400銘柄ほど飲んでみて、この見方については、個人的にかなり強く確信している。

 一冊の稀覯本、あるいは古い茶器や掛け軸が高値で鑑定されると、そこに有り難みを感じる。一方で、五大シャトーのワインが高価な値段で取引されるのを見ると、鼻白む。それは、未知なるものへの恐れや警戒心によるもので、対象のことをよく知れば知るほど、相場感には妥当性があるのだとわかるものである。

とりあえずの結語

 その他、貨幣経済の発祥については異論があるし、ピラミッドが王権駆動で建設された説はさすがに噴飯ではないかとか、他にも不満な点はあるし、バブルのことなど、逆にもう少し考えないといけない要素もありそうな気がするが、ひとまずそれは脇においておき、ここまで思いつくままに書いてみて、本書を読んだときの違和感のもとが、そしてこの文章を通じて自分が書きたかったことが、ようやく朧気にみえてきたので、それをもって当面の結語としておく。

財やサービスを生むための生産活動とは、本質的には、無償の奉仕である。財やサービスを売るための生産活動もまた然りである。
取引が成立した瞬間に、事後的に、報酬が生じる。それが、お金である。

 と、私は、こういうことが言いたかったのである。

 こういうふうに見立てると、本書はお金の向こうに人間の労働を直結させているが、かなり短絡的な構図ではないか、という疑念が生じる。

 おそらく本書のテーマを追求していくためには、まだまだ問われるべきテーマが眠っている。「効用を生み出すものは何か」「そもそも効用とは何か」「財やサービスが取引されるマーケットのありよう」「労働が取引されるマーケットのありよう」など、人とお金の間にあるものについて、考察をしなければならないはずである。

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