そうだ、上部構造へ行こう。
実定法がなにを言おうが言うまいが、社会には規範があり、倫理があるとするのか。はたまた、倫理という言葉の虚構性を直視して、そのうえで、力を伴う法を敷くのか。
現実的に考えると、どちらも同じぐらいに非現実的なのである。
どうしたものかと思っていたのだが、もしかすると、法哲学とメタ宗教学がクロスする場所に、なにかが、あるのではないか。
人間という生き物のどうしようもなさを、解決する糸口が。
しかもそれは、誰しもが実践可能な独立論に基づくものであるような気がしている。それを実践する人が、殖えれば殖えるほど、生きやすさのコミュニティが広がるような。
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