人は誰もが世界の一部分しか見えない

事実と、事実と断定できないもの

私は社会人になってから口数が減った。企業名と肩書を背負って「会社の顔」として社外の人と会話する機会が増えるにつれて、私から話し始める頻度が減った。それは会話によって多くの失敗をして自信を失ったからだ。その失敗の原因は、私が事実と、事実と断定できないものを混ぜて話して事態を複雑化させてしまったことにある。

事実とは、実際に起きたことである。たとえば「○○さんが~~と言った」「アプリのこの画面でこの操作をしたらこの挙動を示した」という事柄である。

事実と断定できないものとは、意見や仮説や要望など、実際に起きたという確証がないものである。たとえば「システムの不具合の原因は○○ではないか?」「あの人が考えているのは、もしかして△△なのでは?」という事柄である。

口頭でもメールでも、私は事実と、事実と断定できないものを混ぜて話す傾向があり、相手を混乱させてしまった。挙句の果てには私自身ですら「あれ?過去にメールに書いたこれって事実だっけ?それとも私の妄想?」と混乱することもあったのである。

事実と、事実と断定できないものを混ぜると聞き手は混乱する。情報伝達を行う上で「ここまでは事実、ここからは仮説」と明確に切り分けないと、仮説を事実と受け止められてしまう危険性がある。

情報を受ける立場に回れば、重要なのは事実だけであり、コメンテーターや有識者と呼ばれる人が主張する「事実と断定できないもの」を真に受けてはいけない。

片手で数えるほどの「街の声」「専門家は」

総務省統計局に拠ると2019年1月概算値で日本の人口は1億2632万人だそうである。ニュース番組やワイドショーでは以下のような光景がしばしば見られる。
・「街の声」と称して新橋や渋谷や新宿あたりの町並みを背景に、2~3人程度の人がテレビカメラに向かって持論を主張する。
・「専門家は」と称して実名と肩書を字幕に載せて、1人程度の人がテレビカメラに向かって「もしかしたら~~なのではないか」という口調で持論を主張する。

さて、1億2千万人を超える日本の人口のうち、2~3人程度の「街の声」と1人程度の専門家の持論、これらの情報を真に受けるべきだろうか。1億2千万人を超える日本の人口のうち片手で数えられる程度の人が「事実と断定できないもの」を言っているだけである。

街の声はともかく、実名と肩書を明記している「専門家だと紹介されている人」だったら信頼できるかというと、そうとは限らない。
・ニュース番組で取り上げている話題についての第一人者である、というエビデンスがない。実名と肩書を明かしているけどこの人は本当に詳しい人なのか、という疑問が残るのである。
・ニュース番組で取り上げている話題の専門家であったとしても、その専門分野ですべての専門家が、同じ意見を持っているとは限らない。専門分野で様々な意見が交わされている中で、ニュース番組やワイドショーはそのうちのひとつをピックアップしただけに過ぎず、同じ分野の別の専門家は異なる意見を言うことがありうる。

ニュース番組やワイドショーの恐ろしいところは、このわずか数名程度の「街の声」と「専門家」が言う「事実と断定できないもの」を、あたかも国民全体の総意や事実であるかのように見せることである。

人は誰もが同じ事実を認識するのか?

さてここまで事実と、事実と断定できないものについて触れ、重要なのは事実だけであることを述べてきたが、ここに難しい課題がある。それは複数の人が全く同じ景色を眺めているときに、その全ての人が同じ事実を認識するのか、という点である。

たとえばサッカーのワールドカップ。特に決勝戦ともなれば世界中で中継が行われ、ボールにタッチしている選手は世界中の注目を浴びる。一人の選手が相手チームの選手と交錯し転んだ。これは相手チームのファールなのか転んだ選手のシミュレーションなのか、世界中で同じ景色を見ているのに視聴者ごとに意見が割れるのである。この例では事実だと言えるのは「選手が転んだ」ということのみであり、転んだ原因は断定できない。

歴史認識でも同様の問題が起こる。同じ時代に同じ場所で同じ歴史的事件を目撃したとしても、人はすべての事実を正確に知覚し記憶することはできない。必ず頭の中で「あの事件は○○だったのではないか、きっとそうだ」という主観が入り、それを事実であるかのように伝承してしまうのである。

映像のみ流すニュース番組は信頼性が高いのか?

コメンテーターや専門家だけでなく現場の目撃者でさえ主観が入り、それを事実であるかのように発言してしまう。では人の発言を一切なくして、カメラで撮った映像のみを延々と流すニュース番組であれば、主観が入らず事実のみ報道していて信頼性が高いと言えるのか?実はこれでも足りないのである。

カメラで撮った映像は、あくまで撮影日時に撮影地点でカメラのレンズに収まった範囲の映像しか伝えられない。

たとえば竜巻や台風や津波といった大規模災害に関する映像を流すニュース番組で、建物が倒壊した映像を流す場合。カメラのレンズに収まった範囲で建物が倒壊したに過ぎず、映像に映っていないすぐ隣の建物は何も被害を受けていない、ということがありうるのだ。

ニュース番組が事実を伝えるために現地映像を流す場合に、ニュース番組にとって都合の良い範囲の映像しか流さない、ということは視聴者として注意すべき点である。

最後に

この記事で言いたかったことは、ニュース番組やワイドショーで流れる映像や、コメンテーターの発言や「街の声」「専門家は」を見聞きしただけで、全てを理解したかのように考えてはいけないということである。

「事実と断定できないもの」が入り込まなかったとしても、世界で起きた事象の全てを漏れなく把握することはできない。人は誰もが世界の一部分しか見えない。国家のトップや権威ある医師であったとしてもだ。立派な肩書を持つ人の発言は正しい、などと解釈してはいけない。

人に情報を伝える側に立つのであれば、事実と、事実と断定できないものを明確に分けた上で、事実については「私の視点からはこう見えた」というだけであることを念押しすることが重要だ。

世界では過去の歴史について、何が事実であったのか論争が繰り返し行われている。しかし当時を知る人でも全てを知るわけではない。人は誰もが世界の一部分しか見えない。

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