見出し画像

151.(95/365) 書き残しておきたい。

4月の業務スタートとともに、更新がストップしていたが、昨日、なんとしてでも時間を捻出して書き残しておきたい、そんな出来事、そんな気持ちに出会ったから書くことにした。
うちのクラスには、教室に入れない1人の女の子がいる。
昨年に引き続き、今年もぼくが担任を持つことになった。
昨年は、1年間ほぼ教室に入ることはなかった。
それでも、ほぼ毎日学校にはきて、廊下で授業を受けたり、宿泊学習や校外学習には参加したりと、彼女なりに頑張っている姿は見てきた。
その前の年、彼女は学校にほとんど来なかった。
来ても、担任の先生が家まで声をかけにいき、しぶしぶ来ていたことが多かった。
そのことも見ていたので、昨年の段階でもよく頑張ったなあと思う。
学校に来たら、別室で自分のペースで課題に取り組み、できないものもあったものの一つずつできることには取り組んでいた。
でも、それも直線的に進んできたわけじゃない。
三歩進んで二歩下がる、のまさにその言葉通りの進み方で、もどかしく思う部分がなかったかといえば嘘になる。
そこには、大人側の欲張りな姿勢があった。
「できる」を見ると、「もっと」と思う。
それが、背中を押す力になるか、恐怖感を与える強制力になるかは、判断がとても難しいところだ。
「もっと」が出て、うまくいくときはいいけれど、うまくいかない時、期待していた結果と違うことにモヤっとする自分がいたりする。
「あなたのためを思って」は、時に暴力的だ。
そのことに自覚的であれるか。
言葉や態度で表に出しているつもりがなくても、心の中で思っていることは、無意識に自分の振る舞いに滲み出てくるものだと思っている。
だから、思考のレベルで「あなたのためを思って」という意識を持っている自分に自覚的であれるかは大事だと思っている。
「ああ、今あなたのためを思ってって考えている自分が出てきてたな。」と。
話を女の子に戻す。
そんな彼女、今年も4月からほぼ毎日登校している。
自分の意思で。
昨日も朝のルーティーンとして、教室前にやってきた。
「おはよう。明日七夕で教室に笹飾ってるけど、短冊なんか書く?」と聞くと、少し間があって、「うん。」と返事があった。
「短冊5色あるんやけど、何色がいい?」
尋ねると、「赤がいい。」とのことだったので、赤い短冊を彼女に渡し、ぼくは教室へ戻った。
願い事を書くところまでジロジロ見られていると感じるのは、あまりいい感じはしないだろうなと思ってのことだ。
1時間目が移動教室だったこともあって、教室から子どもたちが出ていったタイミングを見計らって、彼女のもとへ行き、「なんて書いたん?」と尋ねた。
すると、彼女が見せてくれた短冊にはこう書いてあった。

「教室に入れますように。」

それを見て、思わず目頭が熱くなった。
そうか、そうなのか。
あなたは、教室に「入れるようになりたい」と思ってくれているのか。

なんとなく、そこに関しては、聞いてしまうとプレッシャーになりかねないのではないかというぼくと彼女の関係性からぼくが飲み込んでいたこともあって、踏み込めずにいた言葉だった。
それが彼女の方から出てきたことにとても驚いたし、素直に嬉しかった。
その嬉しさは素直に彼女に伝えた。
あなたが数ある中でそれを願い事として書いたことがとても嬉しい。
そう思ってくれているのがとても嬉しい。
けれど、これまで通り自分のペースでいいこと。
チャレンジしたい時はいつでもチャレンジしたらいいということ。
うまくいってもうまくいかなくても、関係なく応援してるということ。
そんな湧き上がってきた感情を素直に伝えた。
もちろん「もっと」の意識には、注意を払って。

彼女はそのやり取りの後、教室の笹に短冊を飾って、別室へと戻っていった。
その日の終わりの会で、朝あったことをクラスの子どもたちに伝えた。
短冊に彼女がそんな願い事を書いてくれたことがとても嬉しかったこと。
そういうことが「書ける」「表に出せる」ということは、クラスのあなたたちが気にかけてくれていることが間違いなく影響を与えていること。
これからも変わらず、あなたたちらしく、「おはよう。」や「元気?」とちょっとしたことでいいと思うから、見かけたら声をかけてくれたらということ。
きっと彼女はそんな声かけを今、嬉しく思っているだろうこと。

いつもにぎやかで騒がしいクラスの子どもたちだけれど、この時の話は、とても静かに聞いてくれた。
本当に価値があって大切だと思う話は、何も言わずともこの子たちは静かに聞いてくれるな。
素直な子たちだなと思った。
それは、裏を返せば、彼女のことをそれぞれの形で気にしてくれていることの表れのように思えて、それも嬉しかった。
いつもやんちゃなあの子も、静かで1人の作業に没頭するあの子も、こっちを見て話を聞いていた。

放課後、保健の先生が、ぼくの机までやってきて、嬉しそうに報告してくれた。
「にょんさん、知ってますか?!今日、彼女、算数と音楽の2時間、教室に入ったんですって!!」
朝の願い事だけで十分嬉しいと思っていたぼくは、それ以上のことが、まさか今日起こるとは思ってもいなくて本当にびっくりした。
ぼくの知る限りでは2時間も教室に入って学習したのは、初のことだ。
しかも、音楽は、初めて教室に入ったことになる。
さらに、嬉しかったのが、それをクラスの子がわざわざ保健の先生に伝えてくれたということだった。
伝えるまでにどういうプロセスがあったのかまではわからない。
けれど、朝の短冊についてのやり取りがぼくと彼女の間であって、終わりの会の話があって、そして、それを受けて何らかの心の動きがあって、保健の先生に伝えてくれたのではないか。
心がとても温かくなった。
理屈では説明できない嬉しさが次から次に溢れて止まらなかった。

さらに放課後、驚きは続く。
今度は、音楽を担当してくださっている先生が、とてもサプライズニュースを発表する時のような嬉しそうな顔で、ぼくのところへやってきて、
「にょん先生、聞きました!?彼女、今日教室入ったんですよ!!」
「保健の先生から聞きました!ぼくもめちゃくちゃびっくりして!算数も入ったらしいです!」
「そうなんですよ!でね、さらにびっくりしたのが、ろうか暑いと思って、1番後ろに机置いて『ここ座ってやり。』って言うたんですよ。そしたらすーってきて席に座って。でね、しばらくして気づいたら、『あれ?姿が見えない』ってなったんですよ。私てっきり別室に戻ったんやな。って思ってたんですけど、違ったんです。グループのところに机くっつけて自分で課題やってたんですよ!自分から友だちの方に机動かしたんですよ!?信じられます!?もう私泣きそうになりましたよ。」
音楽の先生は、去年もずっと彼女を見てきてくれていた先生の1人。
ぼくもその先生と同じ思いだった。
2人で泣きそうになって、彼女の姿を喜んだ。

学校に来ることが全てじゃないし、
教室に入ることが全てでもない。
そういう気持ちもある。
けれど、そう簡単に割り切れない物語が一人一人の中にはあって、そこにしっかりと向き合って、進んだり戻ったりを繰り返しながら、なんとかやっていく、それを続けていく中で、こういう瞬間が生まれたりする。
これを美談にするつもりもないし、この日できたことが明日からもできるとは限らない。
それは、彼女だけじゃなく、みんなに言えることだ。
けれど、間違いなく、昨日の出来事は「あった」し、そのときにぼくが感じたこと、クラスの子たちが感じたこと、彼女が感じたこと、そのものは確かに「あった」。
そのことが、猛烈に尊くて、「書き残しておきたい!」と強烈に気持ちが動いたので、衝動に任せて書いてみた。

さあ、今日はどんなことが起こるのか。
目の前で起こる出来事、湧き上がる感情、そこから紡ぎ出される関係性を楽しみながら、過ごそうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?