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秋は自分だけのもの(日記)

数日前、Twitterで『ちいさい秋みつけた』に言及したツイートがバズっていたのを見た。
私は昔からこの歌が大好きだ。今でも口ずさむだけでちょっと涙が出てくるくらい琴線にふれる。素晴らしく叙情的で、詩としても曲としても完璧な一曲だと思っているので、その話をする。

秋の歌っていろいろあって、やはり紅葉を歌った曲が多い気がするけど、この曲はそういう「みんながわかる秋」についての歌ではなくて、そこがものすごく好き。
『ちいさい秋みつけた』は誰にとっても・誰が見ても歴然と秋だ、と思わせるようなものは描写していない。あくまで「誰かさん」にとっての気づき、いち個人が感覚としてふと「あ、秋だ」と思う瞬間が描かれている。大っぴらに呼びかけるものではなくて、とっても「ちいさい」、個人的な感覚。

たとえば、外で子どもたちが「めかくし鬼さん 手の鳴るほうへ」と遊んでいる声や、誰かを呼ぶ口笛と一緒にもずの鳴き声が聴こえる(でも自分は遊びに入っておらず、呼ばれてもいない)とか。北向きの部屋でぼんやりとしていると隙間風が秋風だなと思ったとか…
本当にちょっとした、人に伝えることもないような感覚。童謡としてはかなり主観的に感じるこの歌詞、Twitterでも言ったけどよく読むと二番まではおそらく主人公は室内にいて、他の誰とも共有していないけれど、五感で秋に気づいている。
二番の歌詞はいろいろな解釈があるようで、誰かの「うつろな目の色」が「とかしたミルク」に似ているということなのか、それともどこを見るともつかない目で誰かがミルクを溶かしている(粉ミルクのこと?)のか…とか想像が広がるけれど、何にせよやはり自分の見た・感じた景色を切り取った感覚的な場面だ。
そして三番では、景色は急に屋外になる。古ぼけた風見鶏のとさかに引っかかったはぜの葉。その赤が、ちょうど入り日と同じ色。
屋内で閉塞感を抱いてぼやっとしていた視界に、最後の最後で鮮やかな色彩と夕方の光が飛び込んできて終わる。
作詞はサトウハチロー。本当に本当に天才だと思う。


あまりにも"主人公目線"の歌詞で、角度によってどうとでも取れそうな言葉が並んでいるので、聴く人やその時のコンディションなどによっても印象が変わりそうではある。実際タイトルでググろうとしたらサジェストに「怖い」と出てきたのでびっくりしたけど、なるほど、分からないではないなとも思った。断片的で想像がつきにくいので不気味に感じるのかも?
サトウハチローの幼少期などを知るとこの歌詞の背景がもう少し明確に分かりそうではあるけれど、「理解」するための深堀りはしたくないくらい、というか知っていてもその記憶を捨てたいくらい、詩として完成されていると思う。

文学やあらゆる表現全体に言えることだけど、詩という表現の特に好きな部分は、正解の解釈というものがなく、受け手それぞれの感じ方に委ねられているところ、そしてそれぞれの中で別の世界が生まれ変化するところだなとずっと思っている。
そう考えると『ちいさい秋みつけた』は、歌詞で描かれる目線そのものが詩情なのだとわかる。「誰かさん」の見つける秋の気配は誰とも共有できないほど小さくて、見つけた本人だけが手にしているものだ。そしてその感覚は実は誰でも持っている。
この詩で描かれるのは、耳をすまし目を凝らしていた者だけが、自分の中にそっとしまうことができる秋なのだ。厳しい夏の後、うかうかしているとあっという間に冬になってしまう今のような気候にこそ、より格別に感じられる気がする。

ノスタルジックで物悲しいのに展開には華やかさがあるメロディも、ただ「秋をみつけた」としか言っていない歌詞に、新しい季節を感じる高揚も付け加えているように思えるので、そこも最高に好き。最初と最後に「誰かさんが」「ちいさい秋」と繰り返すことで、これまで書いてきたような感覚を強調する機能を果たしているように感じるし、繰り返す一節ごとにコードが変化して、見つけた秋の小ささを表現しているような印象で素敵だ。
私が知らないだけで今まできっとさんざん論じられてきたと思うけど、本当にこれ以上ないほど歌詞と曲がマッチしていて、何もかも完璧。傑作。
こんな曲を小さい頃から口ずさめるって幸せなことだよ、ほんと。


っていうのを数日かけてちびちび書いていたら気温が上がって、また夏みたいな気候に戻ってしまった。ずいぶん涼しくなりましたね、みたいな書き出しをイメージしてたんだけども…。
とはいえもう十五夜なんだよな。中秋の名月、部屋の窓から眺めながら寝ます。
良い秋を。


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