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パプリカに寄せる。

  Twitterを流し見ていたら、こんな記事が回ってきた。

  とても簡潔にまとまっていて5分くらいで読める記事になっているので、ぜひ先にこちらをお読みください。

  これを読むと、米津玄師さんの『パプリカ』という曲が、東日本大震災に寄せる歌であるという解釈をしている。この解釈を一通り読んだ後に、米津玄師Ver.のアニメーションMVを見た。するとあの「赤いマント」をつけた子供は、確かに子供にしか見えない存在であった。その子供が一番はじめに座って居る場所、そしてCメロの「会いに行くよ」という歌詞の部分でその他の子供たちが赤いマントの子供に「会いに行く」場所、つまり赤いマントの子供の帰る場所とも取れる場所は、1本の高い木だった。
  このシーンを見た時に、ふとある1冊の絵本のことを思い出した。

  なかだえり著 『奇跡の一本松』

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  これは、岩手県陸前高田市の高田松原に生えている1本の高い松の話だ。高田松原には当時7万もの松が生えていたと言う。しかし東日本大震災の津波によってこの1本を除いた全ての松が流されてしまったそう。この「奇跡の一本松」は、復興において人々の心を支え、今でも陸前高田市のシンボルとして愛されている。

  『パプリカ』のMVにおいて、Cメロで赤いマントの子供に「会いに行く」子供たちは、大人になった彼らと思われる若い男女の姿と交互に描写されていることから、MVの前半と後半でそれだけの年月が経っていることが考えられる。2011年3月の震災からこの曲が発表された2018年8月まで7年と5ヶ月。当時赤いマントの子供と同じくらいだった彼らは、そのきっと若い男女くらいの年齢になっているだろう。MVの中で赤いマントの子供が座る木の周りは、MVの前半では何もない平地だったが、後半では彼岸花と共に背の低い植物が生えている。「奇跡の一本松」は震災後、接木をされ、松ぼっくりから取った種はたくさんの人々によって丁寧に植えられた。その結果、接木100本のうち4本が育ち、まいた種600個から500本の芽が出た。私は『パプリカ』のMVでの赤いマントの子供の座る木の周りの変化は、このことを表しているのでは無いかと思った。
  そう思うと、この『パプリカ』という曲が本当に震災に寄って書かれた歌のような気がして、MVが終わる頃には、私は涙を流していた。あの記事の筆者は、『パプリカ』は震災直後に岩井俊二によって書かれた『花は咲く』への返歌なのではないかと言っている。『パプリカ』は2020年応援ソングとして発表されたが、この2020年というのは東京オリンピックではなくて、あの震災から10年目、その節目への曲なのでは無いかと考えさせられた。あの記事の作者も、『パプリカ』に対して

2020年応援ソングってのは、オリンピックのことなんかじゃなくって、2011年の東日本大震災の被災者への、8年後の祈りの詩だと感じました。

と書いている。(この8年後というのは震災から『パプリカ』のリリースされた2018年のことを言っている。)

  世の中は2020年と言えば東京オリンピックでいっぱいだが、東日本大震災から9年、未だに元の生活を取り戻せていない人もいるだろう。元の生活というのは、物理的なものだけでなく、精神的なものも含めてだ。そもそも元通りの生活を取り戻すことが不可能になってしまった人もたくさんいる。当時私は小学4年生。そんな私が20歳成人する年なのだ。当時小学校を卒業した兄は、2020年度で大学を卒業する。10代を生きる私たちにとっては、今日までにとても大きな時間が過ぎたように感じるが、たったの9年なのだ。それまでの人生、この何倍もの時間を共に過ごしてきた人を亡くした人が居る。震災から今日までの時間よりも、もっともっと多くの時間を過ごした場所を失った人が居る。そんな人々の存在を私たちは忘れてはいけないのだと思う。東日本大震災後もたくさんの大きな災害が日本の中で起きた。熊本地震や千葉の台風被害などは、まだ私の中でも記憶に新しい。それでも、普段の生活の中でそれらの災害に被災された人のことを考えたりはしなくなってしまった。私たちが知らないだけで、まだたくさん居るのかもしれない。居るのかもしれないけど、居ないのかもしれない。自分から知ろうとしないと、それすらも分からない。そんな状況に私たちはいることを分かっていなきゃいけない。普通に生活していてSOSの情報が入ってこないから、もう助けを必要とする人はいないと思ってはいけない。そういった情報が入ってこないのは、一人一人は災害を覚えていたとしても、もう日本の「社会」がそれを忘れているからだ。だからこそ、こういった作品などで定期的に思い起こされる必要があるのだと私は思う。


  震災から9年。皆さんの暮らしはどう変わりましたか。私は何もかもが違います。目指すものも変わったし、生活の基盤も違う。見える世界も違うし、発する言葉も違う。何もかもが変わりました。あの「奇跡の一本松」も、震災復興当時は様々な延命措置がなされていたが、塩害による根の腐敗によって枯死と判断された。今は元の木を色々な物で補強し、補修し今でも同じ場所にモニュメントとして立っている。そのことを私は今回これを書こうと思って、調べてみて初めて知った。今もまだ元気に生えているものだと思っていた。それを知ることができただけでも、今回のきっかけとなった『パプリカ』にとても感謝したいと思う。

  皆さんは、この『パプリカ』という曲に、どんな想いを寄せますか?


伊波悠希

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