踊ろう命ある限り


小学生の時の、リコーダーのテストが嫌いだった。

「先生聞いてくださいよー」って呼びかけて、先生に拙い曲を聞いてもらって、シールかなんかをもらって。あまりにできてなさ過ぎて、親にしばかれながらリコーダーの練習をしたのを、今でも覚えている(結局中学でアルトリコーダー編があるんだけど)。

「音楽は音を楽しむと書きます」とはよく言ったもので、結局、音を楽しむだけではシールはもらえないという不条理を理解できるほど、小学生、中学生の自分が賢くなかったことを、今になって悔やんでいる。

まぁ、今回のNoteで話したいのは、そんな教育に関する愚痴ではなく(そこは教育学部にお任せします)、そんな教育制度とか我々の血に流れている、
「自由<統制」みたいなものについての話です。

「日本人は踊れない」って話を、星野源さんが言っていた。

まー詳しい発言を引っ張ってくるのは論文じゃないので、文章を書くことを優先しますが、海外の人はクラブミュージックやEDMがかかったとき、各々のダンスを持っているから、その曲に乗って楽しむことが出来るけど、日本人にはそれができないのだとか。そうやってできたのがあの有名な「恋」という楽曲で、恋ダンスは一世を風靡することになったんだけども。

今年、年間ライブ12本を目標に掲げている自分も、意外とライブに行くとみんなが飛び跳ねている中、棒立ちで突っ立っている人を見かける(ライブの楽しみ方は人それぞれ、でもこれが意外と多くてびっくりする)。

その人たちがどんな理由で踊らないのかはわからないが、やっぱり急にEDMをかけられても、ノリノリで体を揺らす人は少ないだろう。自分も多分手拍子するくらいしなんじゃないかと思う。

 でもよくよく考えてみると、自分のダンスを気にしてるのって、その空間で自分だけで、勝手に架空の目を作って、自分の踊らない理由にしているだけであることに気が付く。

なんだってそう、ダンスに限った話じゃなく。

あなたの顔だって気にしてるのはあなただけだし、服だって匂いだってコンプレックスだってそう。

自分が勝手に架空の他者を作り上げて、物事がうまくいかない理由にしているだけだと思う。

だからせっかくなら、もっとはじけていいし、自由にやっていい。

せっかく高いお金を払ってきたライブだし、一度きりの人生だし。


自分は今踊れているのか、と自分に問うなら、その答えはイエスだと思う。

本当に自分は好き勝手にやらせてもらっている。頑張って稼いで好きなところに行って、好きなもの食べて、好きなもの買って(親に全く迷惑をかけていないわけではないので、何とも言えないが)。

あえて「ダンス」という言葉を使うならば、自分は今、自分というダンスの真っ最中である。

無論、みんなが踊っているダンスも素敵である。

耳が痛いが、就活でいうなら、大手に就職した方が給料はいいし、休みは多いし、福利厚生もいいかもしれない。

そういうステレオタイプなダンスも悪くない。

踊り方か決まっているダンスの方が楽に決まっている。自分も体育祭で散々踊った身なので。

でも自分は、人生においてそれを踊る理由を「みんながそのダンスを踊っているから」にはしたくない(もしかしたら逆張りなのかも)。

自分のダンスを「いいね」と言ってくれる人がいるところに身を置きたい。

なぜならそこには「踊る理由がある」から。

たとえそれが大手であろうと、ベンチャーであろうと。


いつまで経っても1でも100でもなく0の自分でいたい。0から生まれた僕のダンスを踊っていたい。


あの時、リコーダーを必死に練習している自分に伝えたい、「紆余曲折あって20になった君は、すごく身軽に自分のダンスができてるよ」って。

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