殴り書き

今回はあえて、思ったことをだらだら綴ります。
多分そうするのがベストだと思うからです。読み苦しいのはご容赦ください。

今ある場所に感謝しようだとか、目の前のことに一生懸命であろうとかと言うのは、外を少し見てきて、それでも周りの人が大切だからであったり、今いる自分の立ち位置が恵まれていると感じるからそういう言葉が出てくるのであって、自分で今の場所に満足が出来ない事、周囲に信頼を置けなければ感謝など進化を止める口実に過ぎないというのはここ数か月で気付くことが出来て良かったと思う。

問題はこの世の中だ。排他的にしたいがために、自分たちの外の景色を見る事を大体禁じている。自分はいろんな世界があることを知っているし、それなりに色んな所へ出かけるので、その土地なりの正解があることは嫌と言うほど知っているし、自分の頭の中を定期的に整理して何に価値があるのかを強く意識しているし。多分私という人間は、感謝が~と言われなくても、それなりに今いる人たちには感謝を示したいし、そのために友達付き合いも意図的に制限して目の前の数人に喜んでもらえるように日々考えて努力しているし、自分が大切だと思っている人からは、それなりに大切にしてもらっているなという自覚もある。
だからこそ、外の景色を少しずつ見に行っているわけだから、感謝の押し付けは胡散臭さを感じてしまう。外の景色を見に行くと、感謝は勝手に生まれてくる。感情は押し付けられるものでも、強要されるものではないと感じるから社会主義国家は嫌われるのだろうし、価値観は人の数だけあるという世の中がそれなりに支持を受けているんだと思う。


何が言いたいか?自分でもよくわからない。転職を控えて今の職場と決別をしたいだけなのかもしれないし、だけど感情の押し付けをしてきて自分に負荷をめちゃくちゃにかけてくる環境にはもうメンタルと体がもたないし、最低限仕事はしてくれと山ほど言ってきたのに結局自分が悪者扱いされるし。なんなんだろうねこの世の中は。
いつでも環境を変える準備をしておきたいなって思ってて本当によかった。
ぞんざいな扱いを受け入れてまで残る人間関係の良さも、給料の良さもないので決断は1㎜も後悔していない。

結局は自分の感情に素直に生きたいだけなんだろうなと感じる。
まだ23歳。この決断を英断にするのも愚策にするのも自分次第。
それでも、未来は自分の手の中にあると信じて、日々闘おうではないか。

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