小説『雑記帳』より。(1話③)
1話 私と鈴木さん③(1話目最終)
私はまた2階に上がってマルク・シャガールの前に座った。
シャガールの青は、ソファから立つ前も立った後も、どこまでも同じ青だ。けれど、何かが違うように見えてしまうのは、私の心の持ち様が違うからなのだろう。
ランプを振り上げた女性は、なぜ水を相手にかけて頬をビンタして、さらにランプに手をかけたのだろう。男性は彼女にそれほどに酷い事をしたり、発言したり傷つけていたのか。
振り上げたその手は、きっと彼女の中の大切な何かを守ろうとして振り上げたものではないか。そんな気がしていた。
女というものは我を忘れて何かを投げつけても、意外と高価なものや大切なものは投げなかったりする。彼女はそのランプが高価なものだと手にした瞬間分かっただろう。でもあえて振り上げた。彼女の中の何かを守るために。
その後、彼女は10分くらいで出て行ったようだ。静かに扉が閉まる音がした。
鈴木さんが階段を昇ってくる足音がする。
「ごめんね、一人にしちゃったね。」
鈴木さんが申し訳なさそうに私の顔を覗き込んだ。
「ううん、大丈夫。この絵の前に居られるから。」
「この絵が好きだね。」
「この絵の青が好きなの。」
ソファの横に鈴木さんも座って一緒に絵を眺めた。
こんなシチュエーションは初めてで、体中が心臓になってしまいそうだった。
「我を忘れるほどの恋をしたことはある?」
鈴木さんが絵に視線を置いたまま私に言った。
「ううん、ない。学校で先輩を好きになったことはあるけど、でもそういうのじゃないと思う。」
「ああ、一度連れてきた学校の先輩ね。」
鈴木さんがクスッと笑った。そうだ、学校の先輩をこの店に、鈴木さんの前に連れてきたことがあった。
「今、十九歳だったかな?」
鈴木さんがいつもと違うような声質で言った。なんだか今いる空間が揺れているような、変わっていくような気がしてくる。
「いつか君も、自分の存在全部をかけるような恋をするかもしれない。恋じゃなくても、大切な何かができるかもしれない。その時は・・・。」
私は首をフルフルと横に振った。
ドラマや小説にあるような熱烈な恋は憧れるが、自分が誰かに手を振り上げることや、自分のために相手を潰そうとするような行為は、世間知らずで育ってきた私にとって想像したくもないことだった。
そして同時に、人を傷つけることに関して、自分の中に何かしらの恐ろしいトラウマが潜んでいることも知った。
階下で扉が乱暴にバタンと開く音がした。さっきの男性の声で、
「すみません!」
と声がする。
鈴木さんはソファから立たなかった。
何回か声がしたが諦めたようで、男性がそのまま通りを走っていく靴音がした。忘れ物ではないらしい、きっと走って彼女を探しにいったのだと思った。
「彼もまた、自分の守りたい何かを取り戻しにきたのかもしれないね。」
鈴木さんが静かに言った。きっと男性が戻ってくることを分かっていたのかもしれない。何となく、鈴木さんならそういうのが分かるような気がした。
いつの間にか、二階の小さな窓からは太陽光が傾いて、夕日も終わりかけていた。
鈴木さんは、そっと私の頭をなでると、いつの間にか泣いていた私の濡れた頬を手で拭った。
「びっくりさせたね。」
しばらく癒すように私の背をさすっていると、静かに私の右頬に自分の頬を重ねた。
鈴木さんの頬は少し冷たい。感触が心地いい。そのままとても長くそうしていた。
まるで優しいキスをずっとしているかのように。
その間に夕日は落ち、2階はマルク・シャガールの絵を照らしているライトの光だけになった。どれだけそうしていただろう。階下の扉が穏やかに開く音がした。
「美味しいカプチーノを入れるよ。」
鈴木さんがソファから立ちあがった。
「うん。」
常連さんたちがたくさんなだれ込んでいて、席はすっかり埋まってしまった。カウンターの一番鈴木さんに近い場所をさして、
「ここへ座って。」
鈴木さんは耳元で小さく言って私を座らせた。それから後の時間は、1時間いても2時間いても、全くいつもの鈴木さんのままだった。
夜も更けていく頃、私は『雑記帳』を出て夜道を駅の方へ歩いた。私はふと駅で男性が走り回って彼女を見つけ、彼女と和解しているところを想像した。
駅に差し掛かったが、もちろんその男女はいない。冷たい夜風の中でも、鈴木さんが触れた私の頬だけが暖かかった。
1話目完(2話目に続く)
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