メロンパン泥棒


夏休み十四日目の午前九時三十八分。僕は台所から持ってきたメロンパンを片手に目の前のスマホに夢中だった。家には誰もいない。昨日から両親は仕事で家を空けている。その上泊まりで。つまり自由の身だ。あいにく、出された課題をやるつもりはないしましてやこそっと連れ込むような彼女なんている筈がない。好きな時間に起きて好きな時間に食べて好きな時間にゲームをして。そんな怠惰な生活に誰も嘴を入れてくる人間がこの一つ屋根の下にいないというのはとても魅力的な環境だった。いや、やっぱりいないといえば嘘になる。横からメロンパンと僕に交代ごうたい物欲しそうな眼差しを向けるこの生き物。飼い犬のレンだ。柴犬とチワワのミックス。通称《シバワ》。八歳。メス。好きなことは食べることと寝ること。他人に紹介できることといえばそれくらいだろうか。一つ付け加えるならレンは食べることが好きなのもあってかずっしり重い。なんかもうボテっ!って感じの効果音がよく似合ういわばふくよかな食パン。父と母の代わりに「食パン」、もといレンの散歩に行かなければならないということが少しだけ気がかりだったがやっぱりスマホゲームの誘惑には勝てないのだった。

      ♢
しばらく経っただろうか、視線を下ろせば食べやすいように、と四つに分けていたメロンパンが二つになっていた。一つは僕が食べてしまったので誰も彼も疑うことは出来ないのだが問題は二切れ目だ。
犯人はわかっている。いや、「犯犬」。…ほら、やっぱり。予想通りだ。疑うその先を見てみればレンの口元には微かにパンの食べくずが星のように散りばめられていた。確定だ。呆れる犬だけれどもずっと可愛がってきた飼い犬を叱れないのは僕の痛いところである。
      ♢
「お盆にはおばさんとかおじさんもみんなこの家に来てくれるらしいぞ、いっぱい遊んでもらおうな、レン。」
僕の家は山奥の静かな場所にある。都会への憧れがないといえば嘘になるのだが学校に行くという行為だけで汗をぐっしょり掻いてしまうくらいの季節に比較的ひんやりとした風が吹く僕の家の立地は好条件だった。おかげで真夏のお盆休みにみんなで送り火をするのも不思議と憂鬱ではない。長く会っていないいとこに会うのもなんだかんだ楽しみだ。多く集まる親戚のためにおばあちゃんやお母さんはかなり奮発してたくさんの料理を作る。今年のお盆はどんなお菓子が出されるのか、どんなご馳走を食べられるのか、数日後に迫ったお盆という名の親戚の集まりを僕は心待ちにしていた。

午後六時十分、両親の帰宅を知らせるカチャリという軽快な音が玄関先に響いた。
「お帰り〜」
返事はなかった。相当疲れているのだろう。
まもなく二人は居間へと行ってしまったため今は玄関先にレンと二人。
「玄関って暑いよなあ。レン。とりあえず戻るか。」
両親のいる居間に行こうと踵を返し、その後からレンも続く。
玄関は真夏の最中にも関わらずまるで真冬を彷彿とさせるほど異様な静けさを放っていた。
      ♢

母さんは泣いていた。クーラーの風が直で当たったせいでスケートリンクみたいに冷えているであろうフローリングに顔を埋めて。父さんはそんな母さんを目を濡らして立って見ているだけだった。なんだか声を掛けにくい。職場でよっぽど心の参る災難があったのだろうか。大の大人である両親が涙を流すくらいの。二人とも真夏に似合わない重そうな正装をしていることからして多分そうだろうと半ば強引に確信して違う部屋で事が収まるのを待つことにした。
      ♢
何時間かぶりに足を踏み入れた畳の部屋でお盆休みに毎年必ずと言っていいほど嗅ぐあの匂いが鼻を掠める。
「あはは。なんかやっぱりって感じだな」
レンと目が合う。
レンには。レンにだけは、僕のこの声が聞こえているのだろうか。

―部屋を覗いてみれば三年前、中二のときに七十二歳でこの世を去ったじいちゃんの横で、卒業した中学校の卒アルの、僕の写真が観音開きの扉の中の黒縁の中でポツンと寂しそうに笑っていた。

居間では、両親が二切れだけ残ったメロンパンを見てやっぱり涙を流しているようだった。
だけれど、何故かレンの口元にはパンの食べくずがついたままだ。



「僕さ、生きてるとき、学校前のパン屋のメロンパン大好きだったんだよね。久しぶりにじいちゃんに会えたのはまじでうれしいんだけどやっぱりしばらく食べなかったら恋しくなるんだよなあ。ごめんなレン。また食べにくるよ、メロンパン」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?