生きる権利と死ぬ権利

生きる権利を語るなら死ぬ権利もあるべきか?

この動画を見てから程なくして、韓国のアイドルの自殺報道を読んだ。

これまではグループも解散して一線は退いていたが、最近になって日本で再出発すると発表されたばかりだった。

時期的に、このアイドルと親交のあった子が1,2ヶ月前に自殺したのもあって、後追い説が早くも浮上している。

上の動画でたけしは、死ぬ自由を主張しつつも「人のために死ぬ事は無い。」と、後追いについては否定している。

韓国という国は、どうも命の価値が日本と違う気がする。
日本では到底理解され難いような死ぬ権利について、韓国では既に確立されているように思える。芸能人の自殺報道が異常に多いのよ。

私には家族がいて、食わすために働いている。
家族がいなくても自分が食うために働いていただろう。
食うという事は生きる事とイコール。

しんどい仕事をしてまで生きなきゃいけないのは、自殺したら家族や友人を悲しませる。あるいは周りに迷惑が掛かるから程度のもので、突き詰めたらそれすらも自殺後の心配なんか不毛と思ってしまえば、いよいよ止める理由がなくなる。

なのに、生きてしまうよね。
もちろん、私が生きている理由は、今は一緒に生きたい人間がいるからなんだが、そういう人がいなくて、しんどい仕事をしてまで自分を生かしたいか?と問われれば、難しいと思う。

生きる理由を言い換えれば死なない理由だと思うのだけど、そういう意味では実にくだらないけど「来月好きなバンドの音源が出る」とか「今やってるゲームがクリアできてない」とか、要するに未練が歯止めになっていると思う。

あとは動画でたけしも言っている通り痛覚の存在が大きい。

まとまりの無い文章をダラダラ書いているけど、ここはそういうコンセプトなので問題ない。

とにかく、今日はク・ハラが自殺して悲しいって話。
ガッチガチのファンではなかったけど、あのグループの中では一番推してたから。

推すということは、結婚すれば喜び、自殺したら悲しむという事だと思ってる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?