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”批評家”はやっぱりしょーもないし、自分で何か生み出しなよ、と思った

今日は結構攻撃的なモードで書いてます。

先日のnoteで紹介した”ルックバック”という作品。

僕が午前中に見た限りでは、漫画家さんやテレビプロデューサーなど、クリエイター的な人たちを中心に話題になっていました。喜び、素直な嫉妬といったポジティブなものがほとんどでした。

しかし、1日も経たず、その日の夕方には一般人のあいだでもとても話題になっていました。

バズり具合でいうと、100日後に死ぬワニのような加熱っぷりでした。


僕もすごく感動してnoteにも書いたし、奥さんにも「すぐに読んでくれ」とリンクを送ったくらいでした。

そこまでは、僕は、上のnoteに書いたようにとても感動していました。こんなに素晴らしい作品を、こんなに作品が飽和した時代に生み出されたことに。


しかし、今は”バズる”ってのはもはや「百害あって一利なし」でしかないな、と思うような言葉の数々が目に入るようになってきました。


例えば、

「ルックバック、何も響かず・・・」

というツイートだったり。(流行りの三点リーダー症候群の方のようです)


これを見た僕は「別に響かなかったなら、自分の中で、”自分には合わなかったな”で終わらせて、黙っておけばいいのに、なんでわざわざSNSでつぶやくんだろう?中学生の男子かな?」と思いました。

で、この人の普段のツイートを見たら小山田圭吾のモンタージュ写真とかをリツイートしていて「あ、響かないだろうな」と納得しました。

つまり、そういう人間には響かないんですよ。響かないんです。と思いましたよ、僕は。(強めの口調)


それにしても、もっとひどい批評を読んでしまって、小山田圭吾のいじめ内容を知った時より胸糞が悪くなりました。

こちらなのですが、

まずタイトルからしてせこい。

「物語」から疎外されるものについて(「ルックバック」の感想のような、そうでないような)

え、なに?感想なの、なんなの?違うの?

結局ハッシュタグで「#批評」とかつけてんなら、堂々と「ルックバックの批評」と書けばいいのに。


読んだ時間と読んだことで少しでも感情的になったエネルギーが本当にもったいなかったな、と思うような内容で、

京アニ事件についての追悼はたくさんされるのに、同じ様に多くの罪のない人が殺された他の事件には特段注目されないことに苛立ったりして

とか書いてあるのですが、そもそも、

なぜ、他人が悼むか悼まないかで、あなたが苛立つのでしょうか?

まずはその”他人を基準とした生き方”をやめたらどうでしょうか?

あなたが「京アニの事件は特別視されるべき事件ではない」「やまゆり園の事件のことは、一生忘れない」と思って、自分の道を進めばいいのではないでしょうか?

と思うのです。


何より、この批評は「ルックバックが京アニのことを描いている」と断定した前提で話がずっと続くのですが、そもそもそれが大間違いだと思います。

しかし、京アニ事件を物語化して描くなら、その描き方はそれに限定されるものではないはずなんですね。

とか言ってますけど、”京アニ事件”という具体的なものを描こうとしたわけではないでしょう。

京アニ事件というものや、その他たくさんの事件や日々のできごとを通して、作者が抱いた抽象的な何かを描きたかっただけでしょう。


このマンガが「物語」である以上、そこで描かれないものがあることは、しょうがないことなのです。
先鋭化する褒めと批判では、先に述べたような「描かれなかったもの」を掬うことはできないんですね。

これを書いてる人は、一体何を求めているのでしょうか?なぜ、自分の描きたかったものを描いた人に対して「描かれないものがあるのは”しょうがない”」とか「掬うことはできない」とか偉そうなんでしょうか?

描かれないものがあるべきでないと思うなら、自分で描けばいい。

掬うべきものを掬いたいなら、自分で描けばいいでしょう。

と思っていたら、しっかり先に逃げ道を作っていました。

「ルックバック」という物語への批判に対し、「そういう批判をするなら、自分がその批判する立場から物語を描けばいいじゃん」という反論がSNS上ではよく見られます、しかし、そもそも現在の物語を取り巻く環境って「みんなから単純に共感されない物語」は描きにくくなっているというのも、また事実なわけです。

「みんなから共感されない物語」は描きにくくなっている。

とか書いてますが、そんなことないでしょう。

描きたいものがあるなら、共感されるかは置いといて、まずは描けばいい。

それに、物語自体に共感される/されない、なんてない。あくまでも”ルックバック”が共感されたのは、共感されるように作者が、力を振り絞って描いたからだ。

それと同じだけの、エネルギーも時間もかける覚悟もない人間が「共感されない物語は描きにくい」なんて批判と言い訳をしないでほしい。


「この物語のここが自分には合わない」ということが発露できないモヤモヤが、なんか今のインターネットには溢れている気がします。

これもそんなことない。5ちゃんねるに行きなさい。同じようにいじけてる人たちが沢山いるよ。どうしてツイッターにいるの?ツイッターは北朝鮮じゃないんだから、好きな時に来て、好きな時に出ていけるんだよ?自分に合わない場所に、自ら選んで残っているくせに「居場所がない」なんて言わない方がいいんじゃないかな?

もしかして、「この会社は俺には合わない!」って酒飲みながら愚痴ってるタイプの人間かな?


と、これを読んでいたらどんどんと悪い自分が出てきてしまいました。


このブログの方もそうですが、「全然面白くなかった」とか「これは、この部分についての説明が不十分だ」とかいう人たちは、まず、

・自分にその作品が合わなかったなら、見なければいいだけ。批評はいらない。

という姿勢をまずオススメしたいし、

・「もっとこうするべき」と思うなら、自分で作ればいい。ダラダラと言葉を並べて批評する暇があるなら、手を動かして理想の作品を作るべき。

ということもぜひやってくれと思う。


俺は、映画でも本でも音楽でも、合わないと思ったらすぐ見るのを(聞くのを)やめる。

みんなが感動してるもので感動できないのが悲しいからって、いじけるなよな。

人間、素直が1番。

そういうとこだぞ、君たち。





読んでみて少しでも「いいな」とか「会ってみたいな」と思ったらぜひ会いに来てください!!