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誰にでも読めるものを書きたい話

 この前、知り合いの大学一年の学生に「レポートの書き方が分からない」と言われた。どうやら社会学の講義らしい。毎回毎回の講義で何が話されていたのかという内容をA4一枚にまとめて、次の授業に持っていく必要があるのだという。

「も~う全然分からないんです~」

 と、今年4月に進学したばかりの彼女は言った。普段のほほんとしている自分から見たら彼女は素晴らしい才覚の持ち主であり、レポート一本で苦労しそうとは思っていなかったから自分は意外に思った。

 恥ずかしながら大学生の時分、自分はこういった類の課題を出すモチベーションが実に低かった。低かったので僕の講義メモはそのままレポートになった。要は教授の話を聞きながらレポートとしてまとめてしまえばいいのだ。そうすれば宿題をする時間は講義外ではなくなり、ゲームやアニメに興じる時間が増える。

 ところがこれを提案したところ、「そんなことできるか」といった類の答えが返ってきてしまった。これまで文章は読書感想文以外に書いたことがなく、本も新書一冊読んだことがないのだという。そして講義中では社会学入門編としてフーコー(※社会学のエラい人。難しくて読み辛い)が紹介されたらしい。フーコーと言えば、四宮式が理解を放り投げた数多の学者のうちの一人である。教授の解説付きとはいえ抽象的概念の深さたるやすさまじく、文章の基礎的な訓練ができていなければ触れることもできないだろう。文章も書き慣れず、本も読まなかった一年生が教授が話すフーコーの話を一見でまとめるというのは相当の苦労があるに違いない。ましてや講義を聞きながらレポートをまとめるなどもってのほかである。

 とはいえ、レポートを何とかしなければ目の前の彼女は困ってしまう。

「どうしたもんかねぇ」

 となってしまった。結局、授業の資料次第ではそれを基に自分がもう一度解説をマンツーマンでできるかもしれないから今度持ってきてほしいという話になって、そこでお開きになった。そして自分はフーコーを勉強することになった。

 実は、彼女が取っている講義の教授は自分もよく存じ上げている。非常に話が面白く、講義も分かりやすい。ところが気になるところが一点だけあった。ある日、教授はとある講義に使用した新書を一冊取り上げて、「この本は非常に読みやすく、一年生が学問に入門するにはぴったりである」といった旨の発言をした。

 そんなわけあるか。

 と僕は思った。大学生の頃、自分の同級生は本を読まないのが通常運転であった。その通常運転はおそらく小学生中学生のころから続いており、そのまま大学に至り、いきなりフーコーだのウェーバーだのキェルケゴールだのにぶち当たるのである。

 「文章読めるってすごいよ」

 と僕に言ってくれる人もいる。自分は14~18歳頃に集中的に文章を読む、書く訓練を行った(このことはまた話そう)。しかし、それは同時期に数学とか化学とか英語とかの高校生が当たり前に習う教育を生贄に捧げた結果の産物である。たまたまできるようになっただけで、自分は代わりに数学ができない。

 そして僕が読書に作文に現を抜かしていた頃、同級生たちは受験戦争や部活動に明け暮れていた。本を読む余裕などないという予想がなんとなくつくし、実際そうだったという話を何度も聞いてきた。文章をじっくり書いたり読んだりする時間など、普通に考えて10代にはない。

 特に昨今はSNSで文字を打つ必要がますますなくなった。ある人によれば、これまでコミュニケーション手段として用いられていた文章が、映像に置き換わろうとしているとのことである。確かにインスタグラムやTikTokを観れば、コミュニケーション手段としてユーザーが文字ではなく映像を用いていることが分かる。

 これに自分がとやかく言うつもりはない。むしろ映像はおろか写真一枚まともに撮れない自分からすれば、そんなSNSのユーザーたちは素晴らしい技術を持っていると考えている。ただ、そんな彼らにも文字の面白さが分かってくれたらより嬉しいと同時に思う。

 だから僕は、書くとしても可能な限り分かりやすい文章を心がけている。一文を長くしすぎず、小難しい慣用句や四字熟語を避け、難解な形容を避ける。できないかもしれないが、可能な限りそうするのである。そうでなければ、一番身近な読者に僕の小説を読んでいただくことができない。

 最近、文字を読むことが好きな人間とかかわることのほうが増えてきた。そのため、しばしばこのことを忘れる。なので、今日はそれを忘れないように、こうして書き残し備忘録とした。なぜなら最初に話題に挙げた彼女は僕が小説を書いていることを知るといの一番に、

「すごいですね!今度読ませてください!」

 と言ってきたからである。

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