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人は何のために生きているのか?


ここ最近、何度目かの「ノルウェイの森」を読み返している。

話を忘れた頃に数年間隔で読み返している。

主人公の「ワタナベ君」は僕と同じ苗字であり、初めて読んだころから、この小説は人ごとだとは思えない。

親友の死を僕も経験しているし

村上春樹特有の女性との描写も、僕の数少ない経験でもあったりはする。


読むたびにその時々でいろんな思いを巡らせる作品である。



作中で、知り合いの女性の父親の看病で病院に訪れる話がある。

その父親は、ほとんど食事もできず、体は動かず、声を出しても枯れそうなほど力がない。

死がもう側まで来ているのである。

それは特別なことでなく、生きている限り誰もが避けられないことなのだ。


僕は仕事で老人ホームを訪れることがある。

時間は11時

お昼は12時なので、お昼までにあと1時間ある。

お昼まであと1時間あると聞くと、まだそんなにあるのと絶望の声を出す。

11時半にはほぼ全員が食卓についている。

そこから30分、ただ食卓についてお昼が運ばれるのを待っているのである。


今、元気でいることが当たり前であり

そんな老後を思い浮かべることはない。

でも誰もが年老いて、食べなくてはいけないご飯も食べられず、命が細くなっていくことは今のところ避けられないことなのだ。

永遠に続くような日常。

老人ホームで暮らしてさえ、お昼までの1時間は永遠に感じられるものなのです。

そんな景色を間近に見ながら、今おいしくご飯を食べられること、何かやりたいと思えることがあること、何かしらのしがらみがあることさえも、悪くないことなのだと思える。


人の一生になんて意味はない。

ただ今を一生懸命に生きた先に、そのうち終わりがくるのである。

その途中で成功しようが、挫折しようが、それはただの途中経過であり、行き着く先は変わらない。

途中がどうなんて何の問題もない。


時間はいつになっても永遠に感じられるものであり

命の灯火が弱くなってきたときにはじめて、その炎が消えそうなことにようやく気づくものなのである。

時間は短いようで長いし、やっぱり短い。

僕も人生の半ばを過ぎつつあるけど、いまだに時間を無駄にすることがある。

それは老後を迎えても、お昼までの1時間を無駄に過ごすことであろう。


だから、今もそうだし、何かに真剣に取り組んでいる時間というのはかけがえのない時間なのである。


あっという間に1時間が過ぎていた。

こんなに幸せな時間の過ぎ方はないと思う。

まだ10分しか経ってない。

やっと15分。

まだ45分もある。

そんな絶望は学生の頃の授業中だけでなく

年老いてからもあるあるなのだ。


いかに今この瞬間を楽しく生きるのか。

どれだけ時間を忘れることができるのか。

そんな時間を過ごせることが、幸せなのかなと思う。


こうしてnoteを書くことをなぜやりたいのか。

こんなの時間の無駄だと思う人もいるし

書くことがつらくなってやめてしまう人もいる。

だけどこうして時間を忘れて書くことに没頭できること。

それは生きているという実感であるし、あと1時間もあるという絶望を感じる暇がない幸せな行為なのである。


ノルウェイの森を読むとき

世界の時間が止まる。

今僕はどこにいてこの文章を書いているのだろうか。


人が生きる意味

それは考えるまでもない。

人生が20年だろうが、100年だろうが
それはそんなにたいした違いはないのだと思う。

ただ今の積み重ね。

今このときの積み重ね。

今をどれだけ時間を忘れて生きられるのかだと思う。

読んでくださるだけで幸せです。 サポートいただけるほど、何か心に残るものが書けていたのだとしたのならこんなに嬉しいことはありません。