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講演のための思考メモ(14)命を預かる仕事

プリンス・エドワード島(カナダ)の添乗でようやく結果を出せたぼくは、それからの2年間で様々な国に行かせてもらった。

オーストリア、マレーシア、フランス(アルザス)、アラスカ(秋)、フランス(南仏)、タヒチ、イースター島、カンボジア、アラスカ(冬)、韓国、ルーマニア、ブルガリア、カナダ、オランダ、などのツアーを添乗した。もうアンケート評価で落第点を取ることはなく、良い結果を残してまた何度か報奨金もいただけた。

初めて訪れる土地ばかりで準備は大変だったが、その分得られる経験も多く、帰りの機内ではいつも自分が少しだけ成長しているような気がした。

どのツアーでも思い出が詰まっていて、忘れられないエピソードはたくさんある。でも、「これまでの添乗で最大のハプニングは?」と聞かれたら、2014年の夏、フランス滞在中に起きたことを挙げるだろう。

22時頃、ホテルの部屋で休んでいると、電話が鳴った。お客様からだった。

「中村さん、遅くにごめんなさい。○○ですけど、ちょっと心配なことがあってね、主人が『胸が痛い』って言うんです。本人は大したことないって言ってるんだけど、今まで胸が痛いなんていうことなかったし、なんだか変だなあと思って……」

色々状況を聞いてみたが、素人のぼくが症状を聞いても当然よくわからない。奥さんが「こんな時間だけど、お医者さんを呼んでもらえないかしら」と言うと、電話越しにご主人の声が聞こえた。

「医者なんて大丈夫だって! 寝りゃあ治るよ。ちょっと歩いて疲れが出ただけだ」
「そうかしら……」

心配だったので、お部屋に伺った。意識ははっきりしているし元気そうだったが、なぜだか胸が痛いという。

「ホテルのフロントに頼んで、救急車を呼びましょうか」
「こんな遅くに呼ぶことはないよ。一晩我慢して明日の朝病院に行けばいい」

そうは言うものの、ぼくは横にいた奥さんの表情がずっと引っかかっていた。本人が平気と言っていても、奥さんは明らかに心配そうな顔をしている。言葉では説明できない何かを感じているのだろう。ぼくは「女の勘」に賭けることにした。

「いや、やっぱり救急車を呼びましょう。何も問題なければそれでいいんです。でももし何かあってからじゃ遅いですから。念のため、念のためです」

ぼくはご主人の反対を押し切って救急車を呼んだ。そしてしばらくして救急医が部屋にやってきて、簡単な問診のあと、簡易的な装置で、手際良く心電図をとり始めた。その心電図の結果を眺めるなり、

「すぐに手術が必要だ」
「え……?」

一同驚いた。医者が紙に書いて見せた英単語を電子辞書で調べると、「心筋梗塞」という意味だった。

それから奥さんは脚の震えが止まらなかった。ご主人は「え?」という顔のまま、救急車で病院へと運ばれていった。深夜2時頃、ご主人は緊急手術を受け、無事成功した。しばらく飛行機は乗れないためご夫妻の帰国日は退院まで延びることになってしまったが、命には変えられない。

翌日、ぼくは病院へお見舞いに行った。ご主人は昨夜に比べて随分顔色が良くなっていた。経過は順調のようだ。横にいた奥さんが言った。

「あのとき中村さんが救急車を呼んでくださらなかったら、今頃どうなっていたかわからないです。夜中だからご迷惑かけちゃいけないと思って躊躇したけど、すぐにお医者さんに診てもらって本当に良かった」

あのとき、「じゃあ、明日の朝病院に行きましょうか」とご主人に流されていたら、手遅れになっていたかもしれない。添乗員の判断が人の命を左右するのだと実感した。

ご夫妻を置いて帰国するのは心残りだったが、幸いホテルには他の日本人スタッフもいるので安心して過ごしていただける。ツアー帰国日の朝、食料やトラムの回数券、お手拭きなど、渡せる限りの物資を渡しておこうと、奥さんの部屋を訪ねた。そしたら、部屋の机には既に収まり切らないほどの食料品やお花がどっさり積まれていた。他のお客様たちが、みんな心配して差し入れをしていったのだそうだ。

「すごいでしょう。まるで、ホテルの一室じゃないみたい。本当に今回は、皆さんに支えられて……」

言葉に詰まる奥さんの目には涙が浮かび、ぼくもうるっときてしまった。

「焦らず、ゆっくり静養して、元気に帰ってきてください」

2週間後、手術をされたお客様からお手紙が届いた。あれから、無事に帰国できたようだ。

「中村さんの危機管理と迅速な対応に命を救われました。あなたは命の恩人です」というメッセージとともに、そのご主人がぼくと同じくらいの年齢の息子さんと笑顔で写っている写真が同封されていた。

旅行を楽しんでもらうのが、添乗員の仕事である。しかし、お客様が安心して、安全に旅を続け、健康なまま帰国すること。当たり前すぎて忘れられがちだけど、これがそもそもの前提だなと強く感じた。

添乗員は、お客様の命を預かっている。とくに昨今の国際情勢では、どこで何が起こるかわからない。そうしたなかでも、責任ある判断・行動を求められる。もし突然テロが起きたとき、お客様を置いて逃げてしまわないだろうか。お客様の命よりも、自分の命を優先してしまわないだろうか。頭ではどうするべきかわかっていても、自分がそのときどう動くのかは、それが起きるまでわからない。

一瞬たりとも気を緩められない、責任重大な仕事。やりがいはあるけれど、厳しい仕事だなと思ったのも事実だった。

(つづく)

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