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講演のための思考メモ(3)オーケストラ生活

2年間のオーケストラ生活

2007年春、ぼくは一浪の末、早稲田大学 創造理工学部に入学した。

大学では、早稲田大学交響楽団(通称:ワセオケ)というオーケストラサークルに入った。高校時代にクラシック音楽が好きになり、趣味でよく聴いていたから、「オーケストラの練習風景を見てみたい」という安易な気持ちでサークルの見学へ行った。そしたら、「本当に学生のレベルなのか?」と驚くほど上手なベートーベンの交響曲を聴いてしまい、このサークルに魅了された。新歓ポスターに「初心者歓迎」と書いてあったので、これを鵜呑みにして、気付いたら入団してしまっていた。オーボエという楽器を始めることにした。先輩が指導してくれたほか、レッスンにも通った。

オーボエを吹いていた頃

ワセオケは1978年にベルリンで開催された「第5回国際青少年オーケストラ大会(通称:カラヤン・コンクール)」で優勝したことを契機に、3年に一度、ヨーロッパツアー(演奏旅行)を行っている。100年以上の歴史と伝統があり、それゆえに部活のような厳しさがあった。

大学2年生の冬、ぼくも3週間にわたるヨーロッパツアー(演奏旅行)に参加した。ドイツ・オーストリア・フランスを巡り、全11都市の有名なホールで演奏する。このツアーに、ぼくはオーボエ奏者としてではなく、和太鼓奏者として参加した。オーボエを吹いて一年が終わる頃、全体集会が開かれ、「来年のヨーロッパツアーでは、プログラムの最後に和太鼓とオーケストラの協奏曲も演奏します。そのための和太鼓奏者が7名必要で、団員から募集します」という趣旨の話があった。

ヨーロッパの聴衆に日本文化である和太鼓を披露できるなんて、かっこいいじゃないか。もし和太鼓を選ぶなら、オーボエの演奏はできなくなる。しかし、一年オーボエをやってみて、中学からの経験者には実力的になかなか追いつけないことも実感していた。だったら、和太鼓に転向した方がまた新しいチャレンジとして楽しめるのではないか。そう考えたぼくは「興味があります」と幹部に伝えた。それから和太鼓チームが結成され、一年弱、授業もそっちのけで厳しい練習を積んだ。努力の甲斐あって、ヨーロッパツアーは成功に終わった。ベルリンフィルやウィーンフィルの本拠地ホールをはじめ、各所でスタンディングオベーションを受けて、それは一生涯の経験となった。

ウィーンの楽友協会にて
ベルリン・フィルハーモニーホールにて

また、ぼくらの演奏や滞在を温かく受け入れてくれたヨーロッパの街や人、文化も大好きになった。ベルリンやフライブルクやヴィースバーデンなど気に入った街がいくつもできて、いつかまたこれらの街々を訪ねたい、という気持ちが生まれた。後から振り返れば、これも重要な「回り道」だった。

残りの2年間は、新しいチャレンジを

ヨーロッパから戻ってきて、大学3年の6月にサークルを辞めた。卒業までまだ2年弱あったのだが、ヨーロッパで味わった以上の経験や感動を、この先のサークル生活で味わえる気がしなかった。それよりも、残りの2年間は今までできなかったチャレンジをして、悔いのない大学生活を送りたい。それまで友人と3度行った自転車旅を、もっと長期で行きたいとも思った。

浪人時代に予備校で出会い、同じ早大理工学部に進んだシンゴと、ぼくは1年生の夏に2泊3日の自転車旅をした。箱根を登り、相模湖に泊まり、ヤビツ峠を越えて、神奈川県を一周した。自分の足で移動し、知らない風景と出会う、その小さな冒険がたまらなく楽しかった。

シンゴとの3回目の自転車旅。白川郷にて

大学2年の夏には房総半島を一周し、大学3年のGWには福島県から石川県までの一週間の旅を行った。ぼくの中で、世界は少しずつ広がっていった。もっともっと遠くへ行ってみたい。知らない世界を見てみたい。そしてサークルを辞めたことで、ようやく夏休みをフルで使えることになった。「1ヶ月間、一緒に自転車旅しない?」またシンゴを誘ったが、「1ヶ月も洋太と過ごすのはさすがに無理(笑)」と断られたので、「まあそうだよな〜」と思いながらぼくはひとり旅の計画を立て始めた。

(つづく)

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