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創作に必要なのは、「日常から離れること」ではなく、「日常そのもの」かもしれない

昨夜、湯船に浸かりながら本を読んでいると、まさに最近悩んでいたことへのヒントが書かれていたので、思考の整理のためにも書いておきたい。

『ずっとやりたかったことを、やりなさい(2)』という本のP.216 <日々の仕事で「創造の筋肉」をつける> という項目だった。以下、印象に残った箇所を書き出しておく。

外部からの刺激を制限しないと、私たちは人の要求に押し流されてしまう。しかし孤独を通しすぎると、自分のことばかりに心を奪われるようになり、停滞してしまう危険がある。必要なのは創作活動をスムーズにする自律と共同体への関与のバランスである。

レイモンド・チャンドラーは保険のセールスをやっていた。トマス・エリオットは銀行マンだった。バージニア・ウルフは夫のレナードと出版社を経営していた。「生活費を稼ぐために仕事をしている人は、本物のアーティストではありえない」などという考えはどこから生まれたのだろう? 往々にして食べていくための仕事は私たちの意識を育ててくれる。また、障害と同じように人物やアイデア、ストーリーや題材の糧になりうる。

アーティストであっても日常生活は必要だ。さもないと、作品は生気がないものになる。

アートは生活を土台にして栄える。生活はアートを育み、豊かにし、広げる。創造的に生きるからという理由で人々から遠ざかり、引きこもってしまうと、人間的な温かみのない作品を生み出す危険がある。

ほとんどのアーティストにとって、勝手気ままに創作にばかり打ち込むのは害となる。
「自己表現」するには、表現するための自己を育まなければならない。自己は一人の世界だけでなく、共同体の中でも育つ。共同体はウェイトトレーニングにおける負荷のような役割を果たすだろう。私たちは他人と接することで強くなり、洗練されていく。食べていくための仕事は家賃を払う役に立つだけではなく、根気を養い、生活にリズムを与えてくれる。アーティストには根気と生活のリズム、どちらも必要である。

あなたは自分自身を「純粋なアーティストだ」と思いたいかもしれないが、アーティストは人間であり、人間は人間を必要とする。モノも趣味も必要だ。もちろん楽しみも。そうしたことを一切顧みず、ただひたすらに創作に打ち込もうとすれば、あなたの創作精神はうるおいを失い、やせ細っていく。

何かにつけお金を気にする現代の文化には、「本物のアーティストであるためにはフルタイムのアーティストでなければならない」という神話がある。私たちはそれを、「生活費を稼ぐための仕事をしていない」という意味にとらえる。しかし実際は、どんな仕事をしていようと、私たちすべてがフルタイムのアーティストなのだ。アートとは意識の問題だからだ。

アートは人生の中で、人生と共に私たちがする何かとみなされている。人生はアートより大きくなければならない。アートを収納する器でなければならないのだ。

人生は直線的な道ではない。アーティストの道は長く、曲がりくねっている。他の人と連れ立ってその道を行くのがベストである。内部のエゴの映画にとらわれず、外側に注意を向け、イメージで創造性の井戸を満たし、ストーリーを伴ったイマジネーションを蓄えてもらいたい。「フルタイムのアーティスト」になろうとするのではなく、フルタイムの「人間」になる努力をしてもらいたい。そうすれば、ハートからアートが溢れ出すだろう。

私たちはみな共に喜びを分かち合う仲間を必要としている。とくにアーティストはコミュニティや仲間を必要としているかもしれない。私たちが人生で果たしたいプロジェクトは、成就するまでに長い時間がかかる可能性がある。その間、私たちは人生を必要とし、人生は私たちを必要とする。

この文章を読みながら、「ああ、自分は間違っていたのかもしれない」と素直に思った。

今年3月に、「奇跡体験! アンビリバボー」のディレクターさんから「中村さんの記事のエピソードを番組で取り上げたい」と連絡があったとき、ぼくはもう思い切ってクライアントワークを一切辞めて、つまり生活費を稼ぐための仕事から離れて、貯金を崩しながらでも創作活動に専念しよう、と思い切った決断をした。

そして実際に春から企業案件の仕事を整理し、7月にはコンサル以外の仕事から離れることができた。これで求めていた時間は生まれたはずだ。しかし蓋を開けてみたら、どうだ。これまで、大した創作はできていない。少ないインプットの中から「何を創作しようか」と考える日々が続いただけで、何か良いものが生まれる予感は芽生えなかった。そして実際に貯金が削られていくと、焦りが生まれ、さらに悪循環にハマってしまう。

ぼくは、「創作に専念しよう」という決断のデメリットは、「収入が減ること」だけだと思っていた。だから貯金が尽きるまでに何かしらの創作が当たれば、逆転のチャンスはあるだろう、と目論んでいた。

しかし、どうやら大きなことを見逃していたらしい。クライアントワークを含め、そうした仕事や日常生活の中から、あるいは人との関わりのなかから、創作のヒントは生まれるのだ。

考えてみれば、今まで高い評価を得られた記事もそうだった。いずれも、「創作しようと思ってこねくり回して書いた記事」ではなく、「ある出来事があって、書かずにはいられなかったから書いた記事」だった。その「ある出来事」は、日常の中で起きている。

会社員だとアートは生み出せないのか? そんなことはない。アンビリバボーに取り上げられたティエリさんとの交流の記事は、元々は会社員時代にブログに書いたものだ。

そもそも彼と出会ったのも会社の昼休みだったし、会話をきっかけに仲良くなれたのもぼくに仕事で培ったティエリさんの故郷への知識があったから、そして鎌倉観光をするティエリさんファミリーの案内を友人に頼んだのも、ぼくが会社員で平日は動けなかったからだ。それが逆に奇跡の物語を生んだ。あのエピソードは、ぼくがあのとき会社員だったから生まれたものだ。他にも同様の例がたくさんある。

この数ヶ月間、様々な旅行エッセイを読み漁るなかで、「旅行エッセイだけで食べていける人はほとんどいない」という厳しい現実を目の当たりにした。優れた紀行文を生み出している作家も、多くはそれとは別の本業がある。

村上春樹さんの『遠い太鼓』や角田光代さんの『いつも旅のなか』は旅エッセイの名著だが、二人とも小説がメインだ。片桐はいりさんの『私のマトカ』も名作だが、彼女は役者だ。星野道夫さんも写真家だったし、沢木耕太郎さんも主軸はノンフィクションだった。

何もない状況から「創作しよう」と思っても、なかなか創作は生まれない。これまでの経験からしても、創作は、ある日突然パッと生まれる。普段の生活のなかで、ちょっとした出来事が起きて、「これは書かずにはおられん」という欲求に駆り立てられて、時間を忘れてバーっと書いてしまうようなものから、自分にとって大切な作品が生まれてきた。十分な時間と余裕を与えられて、「さあ、自由に創作してください」と言われても、逆に難しいものだ。時間と余裕があっても、創作のタネがないのだから。読書はたくさんしていても、やはり実際の行動や体験には敵わない。創作には衝動が必要だ。その衝動は、完全な自由からではなく、日常生活や仕事や人との関わり合いの中から生まれる。忙し過ぎは害になるが、暇すぎるのも害になる。創作には適度な忙しさが必要なのかもしれない。

孤独を通しすぎると、自分のことばかりに心を奪われるようになり、停滞してしまう危険がある。必要なのは創作活動をスムーズにする自律と共同体への関与のバランスである。

そういう風に考えを改めたところで、現状を整理してみると、幸運にも大手企業やベンチャー企業から、先週立て続けに3つお仕事のご依頼をいただいたところだ。それまでの自分だったら、「今は創作に専念したいので」とお断りしていたかもしれないが、考えが180度変わった。新しい仕事、新しい経験が創作につながると信じて、ご縁に感謝し、日常生活を大切に過ごしていきたい。

この数ヶ月間、精神的に苦しかったが、こうして振り返ると良い学びの期間になった。もがきながらも、ちゃんと前に進んでいる。これで気持ちがスッキリした。ポジティブに仕事に取り組んでいく。

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