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文章を書きながら泣いてしまう

文章を書きながら、泣いてしまうことがよくある。

インタビュー記事を活発に書いていた頃は、相手が過去に辛い思いをしたときや、苦悩を乗り越えて嬉しいことがあったときの話と、それを話していた相手の表情を思い出し、ウルウルと涙を流していた。感情移入しやすい。

最近はエッセイを書くことが多い。先日書いたパイプオルガンについてのエッセイでも、やはり書き途中で泣いていた。

朝のスタバ。レジ近くのテーブル席に座り、新作の「桃MOREフラペチーノ」を求めて並ぶ人々の目の前で、34歳の男が涙を垂らしているのである。恥ずかしい。

しかし、どうしてもこみ上げてくるものがある。出会いの奇跡や、人生の奇跡に対して。あるいは自分の心を動かした相手のひと言や、内側から湧き起こる「手応え」に対して。

そして書きながら涙がこぼれてくると、ぼくはある確信を持つ。「この記事は良い記事になる」と。これまでの経験からも、そう感じている。

泣きながら書いた文章には、ぼくの感動が宿っている。自分の心が動いた部分で、きっと読み手の心も動くのではないかと思う。これは「期待」とはちょっと違う。別に読者に対して、「そこでグッときてほしい」と思っているわけではない。でも「多分、ここでグッとくる人もいるだろう」という「予感」みたいなものがあるのだ。理由はうまく説明できないけれど、読者と心でつながれる気がしている。

逆に、旅先での日記を書いているときに、泣くことはあまりない。出来事を淡々と記録しているようなときには、そういう感動はなかなかこみ上げてこない。モードが違う。クライアントワークでもほぼ泣かない。「できるだけ早く仕上げたい」と思いながら書いている文章(もちろん手は抜かないが)では、起きない現象である。

エッセイであれインタビュー記事であれ、「作品を書く」と決めて、つまり「どれだけ時間がかかっても、納得のいく文章を書こう」と決めて、深い集中状態にあるようなときに、「泣く」ことが発生しやすい。そして泣いたときに、幸せホルモン的なものの放出を感じながら、「これはいける」という確信を持つ。

そのように書いた記事が、必ずしも多くの人に読まれるとは限らないが、自分の中で「良い記事が書けた」という実感と達成感を持てる。それはぼくにとって、PV数よりも大事なものだ。

書きながら泣けたときは嬉しい。人の心を動かそうとせず、自分の心が動いた出来事について、素直に誠実に文章を書けばいい。小手先の文章テクニックには頼らない。

「あなたは何のために生きているのか? 何のためにライターをしているのか?」

と問われたときに、

「こういうものを書くためだ」と誇りを持って言いたい。お金を稼ぐことも大事だが、お金だけが目的になると書けなくなる文章もある。たとえ金銭的な対価はなくとも、自分が書かなければこの世で誰にも書けなかった、プライスレスな文章だ。心を込めて積み重ねていきたい。

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