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”失敗も成功も捨ててゆけ” 鍋焼きうどん尾収屋ストーリー(前編)

皆さんこんにちは。過去を振り返らない男、よーそろの井上明です。
な~んて(笑)

超未来志向の私は過去に固執しません。過去を振り返らないからこそこうしてnoteを書いて自分を戒める2年間にしようとはじめました。よーそろチームのメンバーは様々な強みを持っており、基本アクティブで未来志向型人間なのですが、未来志向を強みとする人間ばかりだと足元の大事なものに気付かずつまずいて転んでしまいます。ちゃんと原点回帰が強みとする人物、情報収集力に長けた人物もいて私の突っ走りをふと立ち止まらせてくれます。

私は、ちょっとした過ちに対して「なんでこれやったん?」「どうしてこうしたん?」と追及されるのが嫌いでして・・。なぜかというとそういわれても理由を探したところで過去に戻ることは出来ずどうすることもできないからです。

過去と他人は変えられない・・とよく聞く言葉ですが、過去を活かし未来にどう生かすかは現在の自分の心持次第です。そういう意味ではダメだと思っていた過去があったおかげで今があるんだとプラスに変えることもできます。「○○のおかげで」とするか、「○○のせいで」とするかたった2、3文字で180度見方を変えることができます。

という風に私は悪い過去は忘れ、いいことも忘れてしまう、いいのか悪いのかわかりませんが、一つにとどまらず次から次へ行動を起こすことが私の強みの一つであるかもれません。都合よく言えば(笑)

今日はそのあたりを踏まえ、御手洗の3号店、鍋焼きうどん尾収屋で起こした様々な”捨て経験”について書いていこうと思います。

鍋焼きうどんのストーリー

2011年に船宿カフェ若長を立ち上げ、2013年に薩摩藩船宿跡脇屋(ギャラリー)をつくりました。その頃サイクリングブームがじわじわきていて、とびしま海道にもサイクリストたちを多く見かけるようになりました。
お隣、しまなみ海道は言わずと知れたメジャーなサイクリングコースであり、それよりも短いコースでかつ海沿いを走ることができるとびしま海道は一部では”裏しまなみ海道”と呼ばれ、知る人ぞ知るサイクリングコースでした。段々と自転車のお客さんも増え、カフェ若長にも沢山のサイクリストに立ち寄ってもらえるようになりました。

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カフェ若長は無理やり狭い空間を厨房にしているため、規模的にも経営的もランチは10食限定にしています。御手洗にはみはらし食堂さんはありますが日曜日はお休み。あとは1000円台後半のあなごめしやお刺身が食べられるところはありましたが、サイクリストが1000円以下で気軽に利用するファストフード的なお店がありませんでした。

数年前に亡くなられたのですが、若長の隣に木造船のミニチュアを製作する元船大工さんが「昔は”うろ”言う行商舟が停泊する船に日用品売ったり、食料品売ったりしよってのぉ、七輪積んで引き出しからかまぼこやらネギやら出して鍋焼きうどんも出しよったんよ」と教えてくれました。その行商舟は船の間をウロウロ漕いでいくから”うろ”と呼ばれていたらしい。

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確かに鍋焼きうどんは江戸末期に大阪で流行りはじめ瀬戸内海にも広がったようです。今も松山にはアルミ鍋で提供する出汁甘めの名物鍋焼きうどん屋が2軒あります。

元船大工さんのお話はいつもとてもおもしろく、機会があればいつか御手洗でも流行った鍋焼きうどん屋をつくってみたいと頭の片隅に置いていました。


立ち上げるための素材が揃う

そしてもう2つの素材、パズルのピースが現れることで鍋焼きうどん屋を立ち上げることになります。

1つは場所。御手洗でもお店を営んでいる所有者の方が、しばらく使う予定ないから、借せれるけぇと私に言いに来てくれました。そこは小さいながらお風呂とお店とは別に6畳ほどの部屋もありました。

そして、もう一つは人です。彼がいなければ今のよーそろはないのですが。
そう、ちょいちょい記事の中でも出てくる矢野くん(通称やのっち)の登場です。彼は私の娘を保育園に預けることになったときの最初の担任の保育士でした。保育士を辞め、一年後に帰ってきますと海外に行っていました。

いつか宿事業するかもしれないからついでにゲストハウスの情報集めとってやと出発前の彼にお願いしていました。

出発した半年後、ひげもじゃの彼が突然バイクで若長に現れました。そして「自分もここで何かしたい」「ゲストハウスをしてみたい」と。実際泊まってみたりパンフレットなども集めて来てくれました。

ゲストハウスはすぐすぐの構想にはなく、まずは既存の2店舗ではできないこと、増えつつあるサイクリストのニーズをどう満たすかを考える中で「じゃあ鍋焼きうどん屋を立ち上げよう」となったわけです(笑)

彼も今までの自分のキャリアを捨てて全く新しい仕事づくりに次々とチャレンジすることになります。

借りてくれんかと言ってもらったその物件に彼が住み、その場所は昔”尾収”という屋号だったと聞いたので、鍋焼きうどん尾収屋という店名にしました。

私もカフェは立ち上げたものの鍋焼きうどん屋はつくったこともないお店。当然ノウハウはなく、出汁づくりをはじめどう運営していくか考えていきました。当然矢野くんもそうでした。

しかし、私には強い味方がおりました。カフェを開いた一年前にシニアパソコン教室をつくっていたのですが、その時からお世話になっている教室のオーナーさんがスープの先生でして、鍋焼きうどんの出汁づくりを指導してくださいました。松山の鍋焼きうどん屋にあるような甘めの後引く味にしようと試行錯誤し出来上がったスープ。

それに合わせるべく麺をいろいろ取り寄せ試しました。県外の製麺所でつくる細うどんでもなく、讃岐うどんでもないもちもちしてとても美味しい麺を見つけ、これにしようと決めました。御手洗の鍋焼きうどんは昔はあなごや瀬戸貝がはいっているものもあったと聞いていたのですが、今はほとんど獲れずそこは諦め、呉名物の”がんす”(魚のすり身をパン粉をつけて揚げたもの)をトッピングしたオリジナルアレンジ鍋焼きでいこうと決めました。

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完璧を求めることは捨てる

そうと決まれば改修改修。初期のDIYリノベーション作業は粗も多く、やっては目立たぬように修正を加え続ける日々が続きます。元々あった看板をサンダーで削り、義理の母に筆で”鍋焼きうどん尾収屋”と書いてもらい、ニスを塗りました。机と椅子は昔の学習塾で使っていたものを譲り受け使わせてもらい、石膏ボードで壁をつくり壁紙を貼っていきました。このときの経験ものちの改修に生きることになります。

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暖簾も真っ白で新しいと味のある建物には合わないので新品の暖簾を珈琲染しました・・・見事に失敗。。シミのムラが出来てそれをまた誤魔化すのに一苦労。それもまたよき思い出の失敗談として(笑)

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店主矢野がつくる鍋焼きうどんの味やスタイルもアップデートを重ね、彼の人柄もあって徐々にリピーターも増えてきました。

ただ、鍋焼きうどん屋は通過点に過ぎず、彼とはゲストハウスをはじめ様々な事業づくりに取り組むことを想定していたので、いい人物がいたらレシピをはじめノウハウをそっくりそのまま引き継げる形にしようとつくっていました。

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1周年記念イベントで出した”あなご一本焼き鍋焼きうどん”も好評でした。


アルミ鍋で提供する鍋焼きうどんの派生商品として、といってもこれはマスコミに取り上げてもらうためのネタだったのですが(笑)アルミ鍋をキンキンに冷やし氷をてんこ盛りに入れて、その上にご当地柑橘を使ったオリジナルシロップをたっぷりかけた”鍋氷(なべごおり)”をつくりました。

元祖鍋氷--っ!とうたってみたものの、未だ真似する人はいません(笑)

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地元テレビや関西のテレビ番組でも取り上げられ、荻原兄弟も絶賛。わざわざ大阪からも来てくださるお客さんも。呉の市政だよりにも大きく取り上げて頂き、ヒットしました。

柑橘シロップはブランデーや白ワインをふんだんに入れ煮込んでつくるのですが、柑橘以外にも彼の故郷の一つでもある高知から取り寄せるカボチャのシロップや、ずんだシロップ、最近では大崎上島の岡本醤油を使ったみたらしシロップなど開発し、彼の持つ武器を益々磨いていきます。一つ一つを確実に丁寧につくり上げる強みや私も信頼を寄せる彼の味覚はまた素晴らしく。今は工場長(極小工場)としてこのかき氷シロップの瓶詰商品やいくつもの商品づくりに生きることになります。

2014年に立ち上げた初代店主矢野智之の表現する鍋焼きうどん尾収屋でしたが、思わぬところで新店主に出会いお店を引き継ぐことになります。

そのお話は後編で。



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