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善の研究とテレビ

場所はいつものランドリーカフェで始まる。

朝、コーヒーを片手に友人の谷田に会う。目的は世間話だ。職場ではどうしても仕事中心の話に終始してしまう。必要にせまられた会話から少し離れ、気の置けない友と関心向くまま話し合う。
月に一度あるこの機会を、私は何よりも大切にしている。

今回のテーマは「善の研究」西田幾多郎が100年以上前に著した哲学書である。

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「この本、、、難しすぎるよ。おすすめと言われたけれど、僕は8割がた何を言ってるかわからない。よく薦めてきたきたもんだね。」

「まあ、そう言わずに。その言いぶりだと、残り2割はちょっとグッとくるところもあったでしょ?」

「ん、あった。フレーズフレーズでおっとなる部分があるね。」

「そう、難しいから私も半分はわからない。でも、その分からないのがいいんだよね。100年前の和製哲学書。チンプンカンプンのようでいて、よく読んでみると、最近読んだ『嫌われる勇気』(岸見一郎著)に通じているところがある。自由についての項目はカントと似ているし、宗教の部分は仏教、キリスト教系の本を読んだ人にはとっつきやすいんじゃないかな。」

「そこはわかる。目的論、原因論のあたりは他の本でも話題になるね」

「うん、あとは言い回しに慣れれば、、、なんとか読みこなせるかも。ちなみに、どのあたりがグッときた?」

「モノの価値はどう決まるか?ってところ。あそこは数ページだけの短い項目だし、納得できたよ。」

「何章だっけ、、、私は読み飛ばしたかもしれない」

「3章の真ん中あたり。モノの価値は絶対じゃない、ってところ。モノの機能や反応だけではまだ価値を測れない。社会的な役割、、、もまだ本当の価値とは言い切れない。大事なのは、それを見る僕たちだと。それを見る僕たちの中の、、、なんだっけ、そう、『内面的目的』とどこまで一致しているかで、そのモノゴトの価値が決まるって書いてあった。

これはうなったね。内面的目的って、要は僕次第ってことでしょ?僕の頭の中に自覚している目的がなければ、あらゆるものは本当の意味で価値が無い。この人はそう言っている訳だ。」

「確かに、いくらベストセラーになっているマンガでも、自分の生活習慣に読書が無ければ、食指はピクリとも動かない。スポーツもそう、オリンピックが日本で行われていても、そもそもスポーツをしたい(観たい)が目的になければ、その人にとっては価値が無い。経験的に理解しやすいね。」

「僕にとっては、ゲームすることが人生の目的の半分くらいを占めているから、PS5の新作がよほど価値がある、ってことになるか。」

自分たちの実体験にあてはめながら、残りのコーヒーが冷めるまで話はつきない。

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生活の息苦しさが無くなるかもしれない?西田幾多郎の哲学書、「善の研究」

正直難しい本です。私の好きな三木清からの関連で手にしたものの、一回読み通すまでに1か月。しかも理解できる部分はほんの少し。ストレスがたまる一冊かもしれません。字幕なしで洋画にチャレンジして、「興味はあるのに、分からなさすぎる!」とYouTubeのお気に入りチャンネルに逃げてしまう。それに近い感覚です。

それでも読み通せたのは、すでに何冊か西洋哲学に触れていて、その関連を感じ取ることができたから。比較することができたためです。同じジャンルの本を読む大切さを実感できます。

さてこの本、何が書いてあるかというと

・宗教とは何か ・自由と意志とは ・純粋経験とは 

といった、普段私たちが使っている(?)言葉をより深く理解する内容となっています。それも、辞書のような用語解説に止まりません。知識即実践という姿勢があります。

本当に知っていることは、実践している(はずだ)」という姿勢です。

自分の考え方を深められる思考法から、身体にいいダイエット方法まで。本当にその目的を理解しているなら実践しているはずだ、と西田は言います。

もしやらないのであれば、自分の意識に自覚的でないということ。つまり、「自分がなぜ日々の習慣を繰り返しているのかわかっていない」ということです。自分で自分の行動が分からない。
彼はこの状態を「不自由」と呼んでいます。なんでもできる、即ち自由なのではない。自分自身で決めたこと。いわばルールに従うことを自由と定義したんですね。

私はこの定義がとても好きです。最初に読んだのはカントだったと記憶しています。自由とは、「『自』分の中に理『由』がある」まさに漢字の通りの認識です。

ただし、この考え方は少し怖いところもあることを付記しておかなければなりません。自由が自分由来である、そう考えると、自由であるとかそうでないのは、すべて自己責任ということになります。

会社の上司がなんでも指示してくるから息苦しい。母親が自分の生活になんでも口を出してくる。そんな不満を持っていても、つまるところ、そんな中で自分のルールをもし持っていなければ、「あなた自身の自覚不足で」不自由なのです。抑圧を感じている人にとっては泣きっ面に蜂のような結論になるかもしれません。

また、そういった特別なストレスを感じていない人にとっても気持ちがいい話にはならない可能性があります。

あなたの中にある決め事はありますか?ルールありますか?と聞かれて、そういった自覚がないとしたら。自分由来で行動をしていないのですから、先の定義に従うなら、その人は不自由な人、いわば奴隷です。

テレビ番組1つ見るにしても、「ただ放送されているから観ている」のであって、「見たくて見ている、知りたい情報があるから視聴している」のではない。これは抑圧された、不自由な、コントロールされている生活ということになります。目に見えない檻の中で快適だと思わされている。そんなイメージでしょうか。

ギリシャの哲学者ソクラテスは、市内の人たちに哲学の問いを投げかけることで、啓発を促したそうですが、その結果は為政者による告発と死刑宣告でした。良薬口に苦し。考えを深めるほど、これまで無自覚に受け入れていた快適な空間は無くなってしまいます。学べば学ぶほど、一見生活が苦しく見えてしまう。

哲学書が、鬼滅の刃や呪術回戦ほど売れない理由も良くわかりますね。娯楽本は自分の生活を変える目的をもっていませんから。作中でいかにショッキングなことがあっても、生活には何も影響を与えない。そのなにも変えないところに娯楽の安心感は由来します。

哲学は難しい。苦しい。
しかし、それでも哲学書にトライする理由はなんなのでしょうか。

私の今の考えられることは次の通りです。
この苦しいという感覚の中に、新たな発見ができる。自分自身を見出せるから、です。

作品で例えるなら、
映画マトリクスや、トゥルーマンショー。小説であればギヴァーです。

どれも快適な生活を送っていた主人公が、その世界の成り立ちに「気づく」そして、自分を取り戻すために奮闘する。克己をテーマにした物語です。

世界って本当はどんなものなんだろうか?それに気づくようになったら、今の生活にそのまま安住することは難しいです。もはやその世界は危うい、作り物なのですから。
止まらない知識欲は、本の難解さやそれにともなう苦しさにしのぎます。

一度目を開けたら、もう閉じたままで生活なんてできません。

以上、新たな感覚を得るような一冊、善の研究の感想でした。
今の生活にプレッシャーを感じているあなたに、ぜひ読んでいただきたい隠れた名作です。


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