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この父親は老いてなお、ますます盛ん

父は今年で82歳になります。
私がたまに仕事で近くに行った時、流れでそのまま晩ごはんをいっしょに食べる機会が増えるようになりました。

より正確には、増やすようにしています。82歳ともなると足腰が弱ってくる、やることもなく、あとは老いていくだけ。
そんな訳ですから、こういった居酒屋での晩酌もあと何回あるものだろうか。そう感じながら、貴重な時間を過ごしています。
いわば回数制限付きの親孝行です。

ただ、そういった心配はまだまだ杞憂に終わっています。
むしろ、私が元気をもらっているのです。
その理由は、とにかく元気だから。
顔を合わせる前の予想を裏切り、ハツラツそのものだからです。

82歳にして、自営業者として現役。
建築設計技師として、いまだに新しい取引先が増えているそうです。特に、工事の見積もりを取る「積算」という仕事はめんどくさい。
若い人がやりたがらないため、引く手あまただとか。
趣味は読書、プラモデル、B級映画の鑑賞。
職場とはいえ、事務所に1人しかいないのをいいことに、奔放な生活を送っています。

昨晩も、歴史小説家、北方謙三の著作がいかに面白いか、その魅力を力説されました。
「まさか自分の息子が北方謙三を読んでいなかったとは思わなかった・・・水滸伝を知らないのか!」と、カウンターに拳を叩きつけんばかり。

酒を嗜んでいたとはいえ、40年後にこの情熱を吐き出せるものだろうか。自分の将来を考えながら、父親の剣幕に押され、楽しんでおりました。

こうして昨晩は父との会食を楽しみ、自らを振り返る時間にしたわけです。

ところで、彼の快活さを振り返り、称賛する思考に思いを向けた事情は、先日読んだ本が大きく関係しています。
キケローの「老年について」です。

共和制ローマ時代の政治家、キケローが老年の楽しみを書く

2,000年前のヨーロッパ、ローマ時代であっても、老いるとは現代同様悪いものとして扱われていました。

「老いることは悪いこと」
「力を失い、身体の喜びがなくなっていく」
「恐ろしい死が間近にある、それが老年だ」
と忌み嫌われていたのです。

そんな中、市中での常識をよそに、独自の視点で書かれたのがこの本でした。

キケローは、若い将軍、スキピオーが、80を超える元政治家カトーに質問する、対話形式でこの本を書きました。
2人とも、当時はすでに亡くなっていた有名人です。
日本であれば、若い政治家、中曽根康弘氏が、先輩政治家の田中角栄氏に人生観を聞く、そんな例が近いでしょうか?

この本では、
「なぜあなたは老いてなお、元気なのですか?」とスキピオーが問いかける。
問われたカトーはこの疑問に、老年らしい肩肘を張らない態度で、流麗に答えていきます。

私が特に好きな一節をいくつか引用します。

この一節を読んでから父に会ったので、「なるほど、そういうことか」とより腑に落ちたのでしょう。
魚の図鑑で珍魚を目にしたあと、大阪の海遊館で本物を見た。そんな心持ちです(実父を魚扱い・・・)

老年は不活発で怠惰なものではないどころか、活動的で常に何か行いもし、何かに励みもしているものである・・・何かとは、それまでの人生で情熱をもって追求してきた類の営みである。

キケロー『老年について』26節

必ずしもすべての葡萄酒が古くなれば酸っぱくなるのではない。

キケロー『老年について』65節

君たちの、その善きもの(体力、知力など)を、それがある間は使えばよいし、ない時は求めてはいけない、ということなのだ。

キケロー『老年について』33節

特にこの最後の一節、今あるもので生活する、という考え方は父の生き方そっくりです。

父は、「何が無いか」という話をしません。
もう既に鬼籍にはいった親族、失った体力や視力。若い時にチャレンジしなかったあらゆる可能性。そういったことにはほとんど関心を向けない。

今関心がある小説のこと。この春から庭で家庭菜園を始めること。今よりももっと小さな電気自動車(!)を買って、母とドライブに行く予定のこと。そんな話題にあふれています。

無いもの、失ったものを嘆かず、今楽しめるものを楽しむ。
キケローが言う『吾唯足知(われただ、たるをしる)』を80年以上かけて実践している人だったのです。

そういった訳で、昨晩は割烹居酒屋で、父の凄さと、それに気づかせてくれたキケローに感謝しながら、美味しい食事を楽しめました。
父の期待に反して、北方謙三はまだ読みませんが、読書自体に対する熱量は更に高まっていきそうです。

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