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今までのレコーディングを振り返る vol20 「What’s New」Great Jazz Trio (1998)

今までのレコーディングを振り返る vol20 「What’s New」Great Jazz Trio (1998)

今まで、数々のジャズのレジェンドと共演する機会もありましが、ハンク・ジョーンズさんは、間違いなくその筆頭にあたる人物。そしてこのアルバムは巨匠ハンク・ジョーンズさんがリーダーとなったシリーズの一環として制作されました。

共演の巡り合わせ、運命の巡り合わせというものは不思議なもので、いろいろな要因が重なって時に思いも寄らない話が舞い込んできます。

ニューヨークに移り住んで6年、そしてもがき続け、何とかアクティブなバンドに入り、少しずつ、ニューヨークのジャズシーンに溶け込んでいってきた頃。

自身のアルバムを出すべく、ニューヨークのメンバーとデモテープを録音して、それを持って奔走し、いろいろなレコード会社とコンタクトをとるも、あまり良い返事がもらえなかった頃。

有名プロデューサーたちに交渉するも、僕の望むメンバーでのレコーディングでは無理だと言われたり、自主制作で何百万円も自腹で負担するなら出してやってもいい、というところ。などなど。

現実は甘く無い、ましてやリーダーアルバムを出すなんて。

当時はまだ自主制作というものは色々な面で難しく、インターネットも発達していない時代だったので、レコード会社のレーベルからCDを出して、宣伝などはそこと繋がりのある雑誌やメディアに頼るしか無い時代。

全てのミュージシャンが知名度というものが、実力とは比例しないという現実の壁にぶち当たる時代でもありました。

それでも何かを求めてニューヨークに移り住み、若いながらも自信を深めていた頃だっただけに、この壁の厚さには呆然とするしかありませんでした。

ちょうどその頃、日野皓正さんのアメリカでの活動を基本とするクインテットに参加してニューヨークの有名クラブなどでも演奏し始めていました。

そのクインテットでアトランタのオリンピックの開会式に合わせたスポンサーの集まる一大パーティーで演奏する話が舞い込んできました。いわゆるウェルカムパーティーと呼ばれるもの。その時のゲストがハンク・ジョーンズさん。
パーティーの主催はスポンサーの代表を務めていた松下電器、すなわちパナソニックでした。
ハンクさんはちょうど日本のパナソニックのCMに出演していて人気者になっていたようです。
パナソニックの宣伝部長のM氏はジャズが大好きで自身もピアノを弾かれる方。僕の演奏も知っていたようで、メンバーリストの中に僕の名前があったのを見て楽しみにしていたそうです。

さて、パーティー当日。恐ろしく巨大なボールルームに、デビッド・マシューズ率いるオーケストラも入り、何と豪華なウェルカムパーティー。
日野皓正クインテットでの演奏の他、ハンクさんとはトリオの演奏もあり、レジェンドとの交流を楽しみました。実はこのためのリハーサルがニューヨークであり、その際には予定にない曲を次々とハンクさんが弾き始め、みんなが慌ててついて行き、リハーサル時間を予定よりも大幅にオーバーして演奏を楽しむというハプニングまでありました。ハンクさんは心から演奏するのが好きなのだと、一流の人の振る舞いを見て思いました。
なので、リハーサルだからと手を抜いたり、適当に短くしてすます、ということは自分ではしないでおこうと心に誓った日でもあります。
(日本ではあまりにもリハーサルで手を抜く人が沢山いて少し残念な思いです。)

さて無事に演奏も終えて、終演後のVIPたちとの交流も終えて、初めて宣伝部長のM氏とお話しできました。何かあったらいつでも言って来なさい、というありがたい言葉もいただきました。

後日、その言葉を信じて、ニューヨークから日本に、リーダーアルバムを出したいのですがなかなかうまくいかず苦労していますという拙い手紙を添えて、デモテープを送りました。

後日、すぐに関係者から連絡があり、うちで出すのですぐに準備をしなさいという旨の電話がありました。

うちで出す?

パナソニックで?

世間知らずとは自分のような人のことを言うのだと改めて自分の無知さを恥じました。

パナソニックは当時、テイチクレコードの筆頭株主で傘下に収めていたらしく、ジャズのレーベルを立ち上げてそこから僕のアルバムを出すことにすると言う話だったのです。

そうやって出されたのが僕のファーストCDの「Speak Up」でした。
この話はまた何かの折に。

その一年後、今度はそのレーベルからハンク・ジョーンズさんとのアルバムを出さないかと言う話が舞い込んできました。

ハンク・ジョーンズさんといえば泣く子も黙るレジェンド。特にベーシストにとってはポール・チェンバースの「Bass On Top」のピアニストなので、もう悶絶するしかない話。
しかも、ドラムはこれまたレジェンドのベン・ライリーさん。
最初は普通のアルバムとして出される予定だったのですが、プロデューサーのK氏が最初のGreat Jazz Trioのプロデューサーだったこともあり、そのトリオの名前で出そうと言う話に。
そのトリオ、ロン・カーターとトニー・ウィリアムスが初期のメンバーで、その後も名だたるレジェンドたちのみ参加が許されたプロジェクト。僕なんてとても務まる席ではないと、何度もお断りしたのですが、ハンクさんたちはOKしたようで、ハンクさんとの共演のアルバムの機会を逃してはとOKすることに。

ここまでくるともう僕のコントロールの及ぶ話ではなくなり、あれよあれよとレコーディングの日取りも決まり、いざ本番。

この日もハンクさんが次々と予定にある曲や無い曲などを弾き始めてそれについていく形でレコーディングが進んでいきました。しかも毎コーラスごとにコード進行がどんどん変わっていき、それについて行くと、満面の笑顔でこちらを見てくれます。真のクリエイティブなジャズの原点を見たレコーディングでもありました。

レコーディング中、ピアノの部屋でハンクさんの奥様が、ピアノの後ろにずっと座っていらっしゃるのがとても印象的でした。ヘッドホンもしていなかったので聞こえているのはピアノの音だけだったと思います。まるで一緒にいる時間を慈しむかのように。

余談ですが、このレコーディングが決まる前にハンクさんとハンクさんの出演されていたCMのプロデューサーとニューヨークの日本食レストランに食事に行きました。とにかく楽しい人で、ベニー・グッドマンのバンドで演奏した時の話などを面白おかしく聞かせてくれました。食べ物にはとても気を使う人でそれが長生きの秘訣だったようにも思います。最後にアイスクリームの天ぷらを美味しそうに食べていたのが印象的でした。

その後もハンクさんがニューヨークのクラブで演奏する時は見に行ったりしましたが、いつも暖かく迎え入れてくれました。数回の共演でしたが、肌で本物の演奏を感じることが出来たのは貴重な体験で今でも心の支えになっています。

音楽活動をしていく上で、時にパワーゲームのようになったり政治的駆け引きに翻弄されたりします。大事なのは自分がどういう演奏をし、何を残したいのか。人々に何を届けたいのか見失ってはいけないということです。また妥協してもいけません。少しでも心がここにあらず、というような演奏や録音はリスナーに見破られます。偉大な演奏家たちはどんな状況でも常に素晴らしいものを提供します。その事を教わったレコーディングでした。

レコーディングが終わって、ハンクさんから、せっかく確かな演奏ができる腕があるのだから、アメリカで演奏していくにはもっと沢山人のいるところに出ていきなさい、とアドバイスをもらいました。僕は元来、人を押しのけたり、自分が目立つように振る舞ったりというのが苦手でした。そういうなり振りかまわない振る舞いのみっともなさを沢山見てきました。でも、ハンクさんの言うように、自分なりに何か人に届く努力はしなくてはならない、と心を改めた瞬間でもあります。

いい演奏にいい演奏で応える。当たり前のことですが、これが一生かかっても答えの出ない課題となっています。

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