おばさんがくれた3つのこと。

吉崎の育った環境は、普通と呼べる家庭環境ではないけれど虐待という明確な物はありませんでした。

グレるということもできず、甘えられず、今あの頃を思い出すと当時、それでも笑顔でいられた心のシャットアウトの強さに感心するとともに、ものすごく苦しい気持ちになります。

それでも未だに生きてきたのは、助けてくれたおばさんがいたからですね。猫屋敷と近所で呼ばれていた老夫婦のお家によく遊びに行ってました。他の人にも飼い主にも懐かない猫に懐かれ、とても嬉しかったです。

おばさんは8年前に亡くなりました。彼女がいたからこそ今の私があります。いまだに苦しい時は彼女の言葉を思い出し、なんとか生きながらえています。心から感謝しております。ありがとうございます。


私は、ゴキブリがご飯の並んだ食卓を歩くような家で育ちました。

吉崎は小さい頃、ご飯をあまり多く食べられない子で、一般家庭よりごはんの量がかなり多く、ご飯をよそうのはお茶碗ではなくどんぶりで、食べれないのは自明なんですけど量を減らしてと言っても拒否する親で、ご飯を残すとそりゃあ怒られて食べ切るまで席を立てず、酷いと外に放り出されます。外で食べ終わっても携帯ゲームに夢中な母は無視で、寒い中ギャンギャン泣き喚いたものです。

それを避けるために、ご飯中は席を立てないので机の下に捨てたり、お菓子の箱や袋にご飯を隠すというなんとも言えない対策をしました。

その結果、ゴキブリさんが大量発生しましたね。

でもまぁ、仕方ないでしょ。

食べきれない量を出して食べ切るまで真冬に外に放置したりするのは軽く虐待ですよ。

話を戻すと、ご飯を隠してもバレないほど部屋が散らかってました。

兄も私も母も掃除が苦手で、なにかを集めるのが趣味で捨てるのが嫌いな人種です。

私はとにかくとにかくいやなことを押し付けて自分は逃げていく母が本当に嫌いでした。

団地の集会やアパートの定期掃除、洗濯、洗い物。全部押し付けられました。

外食で、自分はたくさんお酒を飲むのに子供にはジュースではなく水を飲ませたりとそういうところが本当に嫌いでした。

親戚は一人しかおらず、母の兄からのわずかなお年玉も没収され母のパチンコ代や母と兄が好きな釣り代になりましたし、

中学の時母から初めて「お小遣い」をもらって初めての自由なお金にドギマギしました。

私が覚えている限り母は彼氏が絶えない人で連れてくる彼氏は怒鳴ったりセクハラしたり、とにかく不快でした。

中学の時に母が再婚した旦那さんは真逆で、私たち兄弟に無関心。子供が小学生なのに母が子供を置いて何日も泊まりに行くのを気にしないし、とにかく母が大好きで、母のご機嫌取りで子供を遊びに連れて行く感じでしたね。

母は兄が大好きでそちらの意見を聞くことはあっても、私の意見を聞かれたことはありませんでした。

生まれて初めての映画は、ワンピースでしたが、ただ黙って先導する兄について行っただけで今自分が見ているこれが映画だともここが映画館だとも、映画の内容がワンピースだとも気づきませんでした。

元々アニメに興味がなくたまたま後日見たワンピースを見て、映画でもらった付録と絵が似てるねくらいの感想のみです。

母、母の彼氏、兄、私の四人でよく行ったのは釣りでした。釣りが好きな母と兄は楽しそうで。私と父の付き合いは小学校からで、もう10年近くになりますが、まともに話したことは未だにありません。私が家出をした時も母に同調するか、無言でした。

当時を振り返ると、とにかく苦しかった記憶だけです。当時は苦しいという気持ちに気づかなかったのですが、きっと甘えたかったんだと思うんですけど、

当時どうやって甘えたら良かったのか、未だに答えが出ません。誰に?どこで?どうやって?って。

褒めて欲しいと行動しても親はいない。褒めて欲しい人がいませんでした。


中学生になると母は彼氏の家に泊まりこみ、家を空けることが多くなって家にいる方が少なかったです。

そんな時に、いつもご飯を用意してくれたり、朝早くに遊びに行っても笑って受け入れてくれたおばさんだけが救いでした。

兄も友達の家に泊まり込み、夜は一人、誰もいない自分の部屋は寒いので暖房のある母の部屋の布団に入って寝てました。この漠然とした恐怖に対して、なにをどうしたら良いのかも分からなくて、とにかく深夜に歩き回ったり、特に欲しくもないものを万引きしてみたり。

今なら「寂しかったんだ」とわかるんですけどね。当時は本当に心のシャットアウトがキツかったです。よく笑うしよく怒るから、他人には気づかなかっただろうと思います。

夜中はおばさんの家に行ってはダメな気がして、お泊まり以外で一度も行ったことはありません。だからなおさら、一人が寂しかったのかも。夜の散歩の方が家にいるより楽しかったのかな?家でも外でも常に背後が気になって、お化けや何かに襲われるんじゃないかっていつも怖かったです。今思うと、あれは不安という感情だったのかな。

万引きをしてスーパーの店員に捕まることはあっても、警察に行ったことも、夜の散歩中に補導されたこともないんですけど、この場合、運がいいのか悪いのかわかりませんね笑

歩道といえば、高校の時、家の前で学校帰りに初めて補導されました。23時5分だったかな?学校が21時に終わり、22時過ぎに帰宅できたのですけど、自転車を引いて電話で友達と話しながら歩いてたからかなり遅くなって。

学校帰りで家は徒歩1分以内だと話しても深夜徘徊だなんだと聞く耳を持たず。ただ家まで送ってくれたらすぐ終わりだったのに、彼らは無駄な仕事ばかり増やしてなにがしたいんでしょうね?


中学ではよく生徒指導室に閉じ込められてましたね。

倉庫に登ったりと悪いこともしたんですけど、教師の指導不足で他の生徒から被害を被った側のときも私だけ閉じ込められて、一切悪くないのに謝るまで出さないと言われたり、こんな理不尽な扱いをされてよく不登校にならなかったなぁと思います。

他人に興味がなかった、というより関心がなかったんだと思います。

他人にどう思われるか?好かれるor嫌われるかどうかなんて考えたこともなくて、ただ、やりたいことをやり、やりたくないことをやらずに生きてました。漫画を持っていき校則で禁止と没収されて、当時ラノベにハマって授業中はずーーっとラノベを読んでました。

あの頃が一番集中力良かったですね。

立て続けに何冊も、同じ本を何度も読みました。

ただ、ラノベが好き、というより他の子が読んでいたから買ってみた。って感じでしたね。友達が本屋に行くから私も行く。読んですごく面白いし自慢したいけど他の人が興味なかったら多分買いもしなかったと思います。

それは好かれたいというより、今思うと、話題作りだったように思いますね。そのほかは趣味、性格、話すテンポ、行動、何一つ噛み合わなかったです。

怒りや悲しみは当時あったんですけど

怒ってるからどうするというものがなくて、ただ拳を握りしめて椅子を蹴飛ばしてました。うまく言葉にできなくてひたすら無言でした。声を出したら泣いてしまいそうなほど苦しくて抑圧された感情が暴れまわってました。でも泣くのは自分が悪いと認めたふうに受け取られて、それが嫌で、当時の私にとって、泣くという事はダサくてすごく嫌だったんです。

だから、おばさんが死んだときも何も思わなかったんですかね。いまだに、彼女から電話くるんじゃないか、家に行ったら会えるんじゃないかって思うんですよ。もう会えないけど、会いたいと思うから会えると思っちゃうんです。おかしを買ってと泣けば親は買ってくれると思ってる子供みたいに。

今も辛いことには心をシャットアウトしてるのかな

彼氏との間で、嫌だ、触れて欲しくないといった話題が出ると話し合い、妥協策を探し、一緒に乗り越えたい時でも、怖くて恐ろしくて「もう別れよう」ってついくちをついて出てしまいそうになる。向かい合うのが怖くて、逃げ道が欲しくなる。でも、私のことでおばさんと母が喧嘩した時、私は殴られたり外に出されるのが怖くて母のほうについてしまったのを彼女の葬儀が終わって1年ほど経って、ようやく泣けたんです。自分の愚かさと弱さを悔やんだのです。逃げたら失ってしまうとその時本当の意味で学びましたね。


そう思うと、そもそも何かに対する意識を持ったのが高校入ってからだったんですよね。誰かの死によって覚醒した、、って言ったらちょっとかっこいいですけど、大切な人が亡くなり、遺恨を残しているとめちゃくちゃ惨めです。

歌を歌うとき、曲の音程を合わせるとかみんな当たり前にやってたらしいんですけど、私は全く知らずに高校生になりました。

小学生の頃から英語とローマ字をずっと混同しててなぜFriendがなぜフレンドなのかCATもわからない人でしたし、それに気づいたのは高1でもう今更追いつけませんでした。数学と英語を無視して単位数を取り卒業しましたが、それらが必須単位だったらあきらかに死んでましたね。

中3の夏に転校、秋に母が当時の彼氏と結婚したときも、引っ越しが寂しいと思いませんでした。

新しい家も自分だけの新しい部屋もあまり嬉しいと思わず、ただ粛々と受け入れなければいけないと思っていました。引っ越しを嫌だと言ったところで決定事項で選択権はない。と当時の日記に書いてましたが、今思い返すと、嫌だとも嬉しいとも思わなかったのが現実ですね。

ただ、本当に苦しかった。甘やかしてくれる人も誰にも懐かない私だけの猫もいなくなって、自尊心もズタズタでした。

中学までは自分の感情が分からないなりに、本能のままに生きてました。嬉しかったり悲しかったりウズウズしたら相手を殴って蹴りました。猫でいう甘噛みに近いのでしょうか。

高校で、初めて仲の良かった子に「痛い、そういうところ本当に嫌い」と本気で怒られて、マジ泣きして以来、人を殴ったり蹴ったりすることがほぼ完全になくなりましたね。ネタで軽く叩いたり、怒ったりすると手が出ますがそれ以外ではなくなりました。

甘え方が分からないのは変わらないので、発散場所がなくなり、さらに悪化しましたが、その分友達と遊ぶ時間がとても楽しかったですね。


いまだに、好き嫌いの感情が分からないんです。

大好き!とどうでもいいしかなくて、ちょっと好き、とか嫌いとか、その理由もはっきりあり、好き、嫌い、と思う反面、大して興味もなく、無視もできると言った感じで他の人が好きなら受け入れちゃうくらいの脆さです。

おばさんがいたからここまで来れたと思うのですが、

母との付き合い方、嫌いな人との付き合い方、人を大切にする方法、それら全て、生き方を彼女から学んだ手前、好きなものを好きといえない場合はどうしたら良いのか

どんな本を読んでも分からないんです。

彼女ならどう思うか、はわかるのに、彼女の言葉で聞きたいと思ってしまう。

私のいつまでも消えない希死念慮は彼女の面影をずっとおいかけてるからなんですよね。

今の彼氏と出会って、合理的に考えるという方法を覚えてから、好き嫌いを分けられるようになり、散らかった部屋もいらないものの見切りが前より早くなり、人様はまだ家に呼べないながらも、だいぶきれいになりました。

たまに見る意味のわからない怖い夢も、おばさんの夢ももう随分と見なくなりました。

でも未だに彼女からもらった子供向けの人形消しゴムを手放せないでいます。

形見と言えば聞こえはいいですが、、

どうしてもすがってしまう。

弱い自分はカッコ悪いと思う反面、彼女の吸っていたタバコや好きだった曲を聞いて思い返して、もう記憶から消えかけている彼女の声を、抱きしめてもらった感触を、必死に思い出そうとして、手の届かないもやもやで苦しい毎日です。


彼女にもらったのは

生きる希望と

生きる術と

失うことの恐怖


母からもらうはずだったたくさんの愛も料理も辛い時の泣き方も

全部彼女からもらいました。

私にとっての母は母じゃなくおばさんです。

今もまだ心の整理のつかない話題だし、うまく言葉にできた自信はないのだけれど、

苦やっぱり書き出してもうまく心の整理はできないけれど、苦しくても全部大切な思い出です。

母のことは嫌いだけど好きになる努力はしてます。

クソみたいな親だからこそ、彼女に出会えたんだと思うと

あの親だったからこそ長野県に来て、彼氏に出会えたと思うと、本当に、本当に心の底から憎たらしくて愛おしい人生だと思うから。


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