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偏狭と理解のあいだ

大麻は多様性の植物だ。種や茎、葉にいたるまでその多くの部分を有効活用することができる。そしてその用途は多様だ。現在ではざっくりと産業用・医療用・嗜好用と区分されているが、それらの親和性は高く、特に医療用と嗜好用はより高い親和性がある。

そして大麻の捉え方も人それぞれに雑草から神の間にあり、何故だか雑草と神であることの親和性は高い。「その辺にあるもの」であることと「神の草」あるいは「神」そのものであることにそれほどの違和感はない。

聖俗併せ持つことで大麻は多様性を持つことになる。それは天皇家と山の民や川の民、サンカとの関係、あるいは法と道徳の関係とも共通するものかもしれない。あるいは神と悪魔。あるいは天国と地獄。あるいは善と悪。

不完全な存在である人は極端な例を想像することでその中間点での存在を認識し自己確認し、指針とし、価値判断の基準にしてきた。それは人の知恵とも言えるものだ。そして人の間を考えることで人間として集団、社会を作り出してきた。

違いを否定するのではない。さまざまな角度や地平から違いを認めながら共通点を見つけること、それが持続を生み出し集団、社会を生み出してきた。

それは人の個性であり地域の個性であり国の個性となる。また逆に国の個性が地域の個性、人の個性に影響を与えることもある。宇宙に目を向ければ太陽の個性であり水星の個性であり、地球の個性であり、、、太陽系の個性であり、、、となる。

ミクロに目を向ければミドリムシなどにも個性はあり油に変化しやすかったり赤色だったりとさまざまだ。菌にもさまざまな種類があり人都合で善玉・悪玉などと区分けされたりもする。大概はどっちにもなる日和見だったりもするのは人に似ているかもしれない。

大麻は多様性の植物だ。しかしそれに反比例するかのように、人のあまりにも偏狭であり人の多様性を認めないのはどういうことなのだろう。とくに大麻に関わる人の中にその傾向は強い。大麻が象徴するものと大麻に関わる人が生み出しているイメージの間には深い断絶があるように見える。

満面の笑顔で自分の考えや自分が望む相手像を押し付け、それが通らなければ怒り、拒絶、憎しみに変わったりする。ステレオタイプな虚像を押し付けられた方はたまったものではない。陳腐な決めつけや陳腐な思い込みだけからくる陳腐な筋書きは陳腐なだけだ。

違った見方をすれば純愛ともいえる一方的な愛憎劇、あるいは陳腐なまでの愛憎劇にも通じる、感情優位な恋愛劇場を観るようだ。時に相思相愛、略奪愛も絡めながら。

全てを否定するのではないが、事実より重きを置くただただ自己肯定のための検証なき「引き寄せの法則」や「陰謀論」、「スピチュアル」、都合の良い情報だけを見て・聞いて・信じるだけの態度は思考の停止であり必要以上に楽天的に過ぎる。

嫌いなこと、気に入らないこと、聞きたくないこと、知りたくないことの中にも答えは潜んでいる。たとえそれが不都合な真実だったとしても。

そして人は完全ではない。人と人の間にあるもの、それを通して人間となる。その「間」は正解はなく、誰かに決めてもらうものではない。経験や知識、人それぞれの資質そして人と人の関係性などからそれぞれに決めていくことだ。

大麻は多様性のある植物だ。多様性のある大麻に関わりながらあまりに偏狭に過ぎないか。違わなくったって、違ったって良い。わかったって、わからなくても良い。理解しても理解できなくって良い。足の引っ張り合いの中ではなく前向きで建設的な動きの中から大麻への理解が進んでいくことを望む。

大麻は人を、そして農業を、社会を、未来を救うものであって欲しい。新しい価値観と世界をつくっていくための象徴であって欲しい。それがLOVE&Peaceだよね。大麻への理解を求めて人を貶めたり排除しようとするならそれは哀れさを超え滑稽ですらある。

命題至上主義の旧態依然の運動論から生み出されるものは少ない。事実に基づかない嘘や欺瞞や虚構、思い込みの上に成り立つ砂上の楼閣は脆く理解を得ることはできない。

大麻の理解を訴える人々が理解されない理由を理解されない理由で立ち止まってしまうことに苛立ちがつのる。

全肯定と全否定、ゼロか100、敵か味方しかない社会は窮屈だ。

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