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【百年ニュース】1921(大正10)10月10日(月) 女優の橘公子が和歌山で誕生。本名豊田(川村)喜三子。1933(昭和8)両親が亡くなり上京。青山高等女学部(現青山学院)に進学。1936(昭和11)日活多摩川入社。翌年『お父さんの歌時計』で映画デビュー。轟夕起子らとともに日活現代劇で活躍。1942(昭和17)結婚。

女優の橘公子が和歌山市本町で誕生しました。本名は川村喜三子。1933(昭和8)、12歳のときに両親が亡くなり、遠い親戚にあたる元日活太秦撮影所の脚本部に所属していた松本有義の養女となりました。養父の住む東京都渋谷区に移り、青山高等女学部(現青山学院中等部・高等部)に進学しました。

1936(昭和11)、15歳のときに養父の推薦により日活多摩川に入社し、翌年16歳で『お父さんの歌時計』に出演し映画デビューを果たしました。青山学院は退学し女優業に専念、轟夕起子らとともに日活現代劇で活躍しました。滝口新太郎との共演が多く、青春コンビとして知られました。

1939(昭和14)年には自身初の時代劇『三味線武士』では「アラカン」こと嵐寛寿郎の相手役を務め評判となりました。以降は時代劇に活躍の場を移し、翌1940(昭和15)年からは時代劇の本場である日活京都に移籍しました。阪東妻三郎や片岡千恵蔵など当時の大スターの相手役を次々と務めました。

橘公子が時代劇で活躍している頃は、1939(昭和14)年の映画法制定を画期に政府による映画の統制が強まっている時期でした。1942(昭和17)年1月に映画会社の統合が進み、大映京都に移籍となりました。

引き続き大映で時代劇を中心に出演するかたわら、1942(昭和17)年に結婚しました(本名は豊田喜三子に)。一男一女があると言われます。

戦後は大映で多くの映画に出演し、のちテレビドラマにも出るようになりました。1976(昭和51)年には永続勤続者として高峰秀子、沢村貞子らとともに表彰されました。

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