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【百年ニュース】1921(大正10)7月9日(土) 政治家の山中貞則が鹿児島県末吉村で誕生。台北第二師範学校を卒業し,高雄で教員になった。のち出征,復員後は県議を経て衆議院議員。1972沖縄返還後の初代沖縄開発庁長官。防衛庁長官等を歴任。自民党税調会長に君臨し,税調のドンと呼ばれた。2004没,享年82。

政治家の山中貞則やまなか さだのりが誕生。鹿児島県曽於郡そおぐん末吉村すえよしちょう、現在の曽於市出身。旧制都城中学校(現・宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)を卒業したのち台湾に渡り、台北第二師範学校に進みました。この台北第二師範学校在学中に、当時同校で教師をしていた、のちの沖縄の政治家、屋良やら 朝苗ちょうびょうと出会い、のち山中の大きな政治資産となりました。山中は同校を卒業後、高雄州たかおしゅうの国民学校で教職を務めましたが、太平洋戦争に際して出征し、復員後は地元鹿児島の地方新聞の南日本新聞の記者となりました。

やがて鹿児島県議会議員となり、1953年、32歳のとき、第26回衆議院議員選挙に際して、自由党公認で旧鹿児島3区から出馬し初当選。1955年の保守合同、すなわち自由民主党の結党に際しては、河野一郎の河野派に所属しました。1958年、岸内閣で大蔵政務次官となり、税に精通した政策通となる機会を得ました。1961年自民党副幹事長、1963年衆議院大蔵委員会委員長と順調にキャリアを重ね、1970年第3次佐藤栄作内閣で総理府の総務長官として初入閣、アメリカとの極秘交渉による沖縄返還で手腕を発揮したのち、1972年沖縄返還と当時に初代の沖縄開発庁長官となりました。

1973年第2次田中角栄内閣では防衛庁長官。そして1979年に自民党税制調査会長に就任、以後は「税調のドン」「ミスター税調」「税の神様」などと呼ばれ、自民党の税制調査会に長期に渡り君臨しました。1990年には消費税導入を積極的に推進。2003年第43回衆議院選挙にも当選し、最年長、最多当選の国会議員となりますが、わずか3カ月後の2004年2月20日に肺炎により現職のまま死去しました。享年は82歳でした。

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山中貞則


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