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【百年ニュース】1921(大正10)5月21日(土) ソ連水爆の父,アンドレイ・サハロフが誕生。モスクワ大学卒。戦中は独ソ戦を避けトルクメニスタンに疎開。戦後物理博士号。1953水爆実験に成功するが,民主化と人権擁護を求め運動。1975ノーベル平和賞。1986ゴルバチョフにより流刑が解除され,1989没,享年68。

「ソ連水爆の父」また「ペレストロイカの父」と呼ばれるソ連の物理学者アンドレイ・サハロフがモスクワで誕生。父は私立大学の物理教師でアマチュアピアニストでもあったドミトリー・イワノビッチ・サハロフ。のち父ドミトリーは第二モスクワ州立大学の物理学の教授となります。また祖父のイワン・サハロフは帝政ロシアの著名な人権派弁護士でした。

このような環境で育ったアンドレイ・サハロフはモスクワ大学に入学しますが、1941年には独ソ戦を避けトルクメニスタンに疎開。疎開中に妻クラウディアと結婚し、のち2人の娘と1人の息子をもうけます。戦後1945年にモスクワに戻ると1947年に物理博士号を取得しました。

1948年の中旬頃より、彼はイゴール・クルチャトフとイゴール・タムの下でソビエトの原子爆弾開発プロジェクトに参加し、約1年後1949年8月29日ソ連は初の核実験を成功しました。引き続き水爆の研究に従事し、1953年8月水爆実験に成功しますが,核実験による放射能汚染を目の当たりにし、特に大気汚染を懸念し、核実験の中止をソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフに進言。結果的に1963年の部分的核実験禁止条約締結につながりました。

1960年代からは民主化と人権擁護を求め社会的な発言をするようになり、ソ連政府から危険視されるようになります。この活動が評価され1975年にノーベル平和賞を受賞。逆にソ連政府内では受賞が批判の的となり弾圧されるようになります。

不遇な時代を過ごしたあと、1986年に新たにソ連の指導者となったミイハイル・ゴルバチョフが打ち出した新政策により流刑が解除され、モスクワに戻ります。ペレストロイカの進展を強力に支持したほか、ソ連のアフガニスタン侵攻を批判するなど、両親に基づく発言が当時の国民の称賛を受けました。

1989年10月、読売新聞社主催の「第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラム」に出席するため最後の来日。翌年天皇となる現在の明仁(あきひと)上皇や当時の海部俊樹総理大臣らと会いますが、帰国直後の1989年12月14日心臓麻痺のため急死しました。享年68でした。

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