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【百年ニュース】1921(大正10)11月25日(金) 「マカオのカジノ王」スタンレー・ホー(#StanleyHo)誕生。英領香港時代の四大富豪のひとつ何東一族出身。香港大学卒。英語,日本語,ポルトガル語を流暢に話す。1962マカオのギャンブル経営権を獲得しホテル・リスボア等経営。同地に君臨した。2020没,享年98。

この日のちの「マカオのカジノ王」スタンレー・ホー(Stanley Ho)が香港で誕生しました。

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曾祖父はオランダ人実業家のチャールズ・ヘンリー・モーリス・ボスマン(Charles Henry Maurice Bosman)。この曾祖父は1839年8月29日にMozes Hartogとしてオランダのロッテルダムで生まれたユダヤ人でしたが、のちロンドンに拠点を移し、アジア貿易を中心に活躍するビジネスマンとなりました。中国語名として何仕文とも名乗りました。

この曾祖父のオランダ人チャールズが、香港郊外の宝安で中国人の愛人であるSze Tai(施娣)との間にもうけたのが、のちジャーディン・マセソン商会総買弁となるロバート・ホー・トン卿(何東:Sir Robert Ho Tung)、そしてその弟ホー・フック(何福:Ho Fook)です。英領香港時代の四大富豪のひとつがこの何東一族でした。弟ホー・フックの息子ホー・セイクゥワン(何世光:Ho Sai-kwong)には13人の子供がおり、その9番目がスタンレー・ホー(Stanley Ho)です。大富豪の家庭に生まれたと言えます。なおロバート・ホー・トン卿の娘グレイス・ホー(何愛瑜:Grace Ho)は俳優ブルース・リーの母親として有名です。

1934年6月19日フランクリン・ルーズベルト米国大統領はニューディール政策の一環として銀買上法を施行します。不況対策の一環として銀の値段を吊り上げ、米国国内の銀産出地域を助けようとしたわけです。いわゆる米国の銀の備蓄・退蔵政策です。しかしこの政策により銀の国際価格が上昇すると他国に深刻な影響を及ぼし始めます。特に銀本位制であった中国からは大量の銀が米国に向かって流出することとなり、国内で物価下落(デフレ)と金利上昇が進みました。

翌1935年になると中国国内の金融機関に取り付け騒ぎが頻発します。臨時休業する銀行が増え始めると、中国の金融破綻を懸念する声が強くなっていきました。1935年11月3日中華民国の蒋介石政権は貨幣改革を実行し、銀の国有化と紙幣の強制使用を定める「財政部改革幣制令」を布告しました。いわゆる法幣の発行です。

このような中国経済の混乱と金融改革のなか、スタンレー・ホーの実家一族の経済状況は悪化していきます。二人の兄が自殺し、父も破産し行方不明となるなか、母と2人の姉とともに残されました。しかし一家は学業への投資は怠らず、スタンレー・ホーは香港のクイーンズ・カレッジ(皇仁書院)、続いて奨学金を得て香港大学に進みました。本人は成績があまり良くなかったと回想していますが、英語・日本語・ポルトガル語を流暢に話すことが出来るようになりました。

1941年12月8日の真珠湾攻撃に続き、12月25日からは日本軍が香港を占領しますが、その影響でスタンレー・ホーの大学生活は中断されてしまいました。一家の財産は完全に失われることとなりましたが、スタンレー・ホーは香港から隣接するマカオに移り、日本人が経営する貿易会社で働くこととなりました。中立国ポルトガル領であったマカオは日本軍の干渉なく比較的自由に行動できたため、高級品を香港に密輸することで財を築いたと言われます。

スタンレー・ホーは1943年に灯油販売の会社を自ら起業し、のち建設業にも進出しました。戦後は香港に一大建設ブームがやってきます。そこで得た利益を元手に、1962年にクイーンズ・カレッジ(皇仁書院)時代の同級生、ヘンリー・フォック(霍英東かくえいとう:Henry Fok)と組んでマカオのカジノの独占経営権を落札し、以後マカオを急速にアジアの一大カジノ都市として発展させました。

スタンレー・ホーが経営するSTDM(Sociedade de Turismo e Diversões de Macau:澳門旅遊娯楽股份有限公司)はマカオのカジノ運営権を2002年まで独占し未曽有の発展を実現しました。マカオの老舗高級ホテル「リスボア」のほか20のカジノを運営し、香港とマカオを結ぶ高速艇(TurboJET)、マカオのランドマークであるマカオ・タワーを経営。マカオのGDPの1/3をSTDMが占めると言われます。

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フォーブスの世界長者番付においては、2006年のランキングで世界84位でした。ギャンブルで億万長者になったスタンレー・ホーですが、自分自身はギャンブルは全くやらないことで知られていました。趣味はダンスで長年にわたり多くの時間とエネルギーをダンスに傾けたと回想しています。自身は特にチャチャ、ワルツ、タンゴを得意としました。またダンス芸術振興のため、香港やマカオでの多くのダンス公演を後援し、芸術祭のスポンサーとなりました。

スタンレー・ホーには4人の妻と17人の子供がいます。実質的な後継者となったのは1962年生まれの娘パンジー・ホー(何超瓊:Pansy Ho)です。彼女は2018年に香港の最高級住宅地ビクトリア・ピークに9億香港ドル(約132億円)の住宅を建設したことで話題になりました。

なおスタンレー・ホーは、香港の三合会(黒社会)組織「Luen Kung Lok」と関係があると噂されたことがあります。カナダにおける組織犯罪の刑事裁判において、スタンレー・ホーの名前が取り沙汰されました。また米国のニュージャージー州ゲーミング法執行局規則がカジノ大手MGMミラージュを調査した際にも、スタンレー・ホーと組織犯罪との関係が報告されたことがあります。

2009年7月下旬にスタンレー・ホーは自宅で転倒し脳外科手術を受け、以後は車いすでの生活を余儀なくされました。2009年12月20日のマカオ返還10周年式典で当時の中国国家主席胡錦濤と会談する姿が報道されたあと、表舞台に現れることはありませんでした。2020年5月26日に死去。享年は98歳でした。

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