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【百年ニュース】1920(大正9)9月19日(日) 大阪久左衛門町で火事。建築中の松竹演芸の四階建て洋館より出火。作業場の煙草不始末。日曜日で賑わう道頓堀や千日前がパニックに。各劇場の観衆が逃げまどい、道頓堀川両岸,戎橋,太左衛門橋,相生橋には野次馬が殺到。

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当時千日前の楽天地では筑前琵琶名手の宮崎錦城(旭城)が率いる琵琶少女歌劇団(1919-1923)が人気を博していた。当時流行の宝塚少女歌劇団に影響を受けたもので、少女が琵琶を演奏するミュージカル劇。看板スターはのちに日本を代表する女優となる田中絹代(10)。

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「当時琵琶は高級楽器でしたので良家の娘は今のピアノのように琵琶を習っていました。姉たちもみなやっていましたので,私も五歳からいじっておりました(田中絹代『映画の青春』)」

「琵琶は宮崎旭城という先生につきました。のちに改名して錦城といった人です。筑前琵琶では高峰三枝子さんのお父上の高峰筑風というかたと当時並び称せられていたそうです。私の家では姉たちも習ったのですが,私がいちばん上手で,もう7,8歳のころには,錦華という名前をいただいて,幼いながら,ひとかどの名手ぶりを示しておりました。その錦城先生が,やがて琵琶歌劇というものを組織されて,楽天地で公演をすることになりました。なんでも当時人気の出てきた宝塚少女歌劇に対抗しようというねらいで,10歳未満の少女ばかりを集めた歌劇団でした。錦城先生のお嬢さんが幼い座長で,私も,主役のひとりとして参加しました。だしものは牛若丸とか大楠公といった歴史劇がおもで,公演活動は3年ほど続いたと思います。なかでも私が主人公の石童丸にふんした苅萱というだしものなどは大ヒットいたしました。私は琵琶歌劇のスターだったわけです。(田中絹代『私の履歴書』)」

「今のミュージカルと少しも変わりありません。洋楽器であるか,日本の古典的な楽器の琵琶であるかということだけです。歴史劇とか,なかなか大人っぽい大楠公とか,とにかく純日本的な歴史を取り扱いました。あとは新劇を創作で出しました(田中絹代『映画の青春』)」

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