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【百年ニュース】1922(大正11)1月22日(日) 徳川慶久が死去,享年37。徳川慶喜の七男。母は側室の新村信。貴族院議員,華族世襲財産審議会議長。未来の首相候補との声もあった。妻は有栖川宮威仁親王の第二王女,實枝子。睡眠薬カルモチンの大量摂取により小日向の本邸で急死した。

徳川慶久よしひさが死去しました。享年はわずか37歳でした。

1884(明治17)年に9月2日、徳川慶喜の七男として誕生しました。生誕地は静岡市葵区紺屋町の屋敷で、母は側室の新村信しんむら のぶです。初名はひさしといいましたが、1902(明治35)年に父親から一字をとり慶久と名を改め、周囲からは親しみを込めた音読みで「けいきゅう」さんと呼ばれました。

1906(明治39)年に学習院高等科を卒業し東京帝国大学法科大学政治科に進学。1908(明治41)年に有栖川宮威仁親王の第二王女實枝子みえこと結婚し、1910(明治43)年大学卒業後に父の隠居により同年に公爵を襲爵し貴族院議員となりました。

のち華族世襲財産審議会議長などを歴任しました。映画俳優並みのハンサムぶりで人気が国民の人気が高かったほか、親友だった侯爵の細川護立によれば「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」とのことで未来の首相候補との声もありました。

1922(大正11)年1月22日に、睡眠薬カルモチンの大量摂取により小日向の本邸で急死しました。当初の発表では脳溢血による病死とされましたが、一部では自殺説も取り沙汰されました。

カルモチンはブロムワレリル尿素系の催眠剤で、第一次世界大戦の影響でドイツからの輸入が途絶えたため国産化が進みました。1915(大正4)年にブロバリン(日本新薬)、1917(大正7)にカルモチン(武田薬品)が市販され、国内で流通するようになりました。ほかにドルミノン(大正製薬)、ソムナール(塩野義)などがありました。


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