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【百年ニュース】1921(大正10)11月15日(火) ドイツの画家オイゲン・ブラヒトがダルムシュタットで死去,享年79。風景画家ハンス・ギューデに師事し,エジプトやパレスチナ,シリアを旅し中東を題材とするオリエンタリズム絵画で名声を得る。1882ベルリン芸術アカデミーの風景画担当教授。

ドイツの画家オイゲン・ブラヒト(Eugen Bracht)がダルムシュタットで死去しました。享年は79歳でした。

オイゲン・ブラヒトは1842年6月3日にスイス南部ヴォー州のレマン湖の北岸、州都ローザンヌから西に約10kmにあるモルジュという街で生まれました。父はプロイセンの著名な自由主義的な法律家プロスパー・ブラヒト(Prosper Bracht)でした。父プロスパーは当時プロイセンで議論となった一般土地法に反対する著述を著したため民衆扇動罪に問われ一時的にスイスに亡命中でした。

オイゲン・ブラヒトには二人の姉妹と三人の兄弟がいました。また叔父に米国テキサスに移住した実業家で著述家のヴィクトル・ブラヒト(Viktor Bracht)がいます。

1850年に父プロスパーがドイツのヘッセン大公国ベルトランド伯爵夫人の資産管理者兼弁護士の職を得たため、家族でヘッセンのダルムシュタットに移ります。8歳だった息子のオイゲンは以後ダルムシュタットで教育を受けますが、そこで宮廷肖像画家のフランツ・バックオーフン(Franz Backofen)から直接絵画を学ぶチャンスに恵まれ徐々に才能を開花させていきます。

1859年17歳でカールスルーエ美術アカデミーに入学しましたが、同学にのち画家として大成するハンス・トーマ(Hans Thoma)やエミル・ルゴ(Emil Lugo)らがいました。さらに1961年にはデュッセルドルフに移りノルウェーの風景画家ハンス・ギューデ(Hans Fredrik Gude)のもとで学びました。そしてデュッセルドルフの著名な風景画家オスヴァルト・アッヒェンバッハ(Oswald Achenbach)の称賛を受けて知名度を上げていきました。

しかしオイゲン・ブラヒトは一時画壇から離れビジネスの世界に転身することとし、1870年28歳のときにベルリンで羊毛商を始めます。ときはまさに普仏戦争(1870-1871)のタイミングであり、何らかの一獲千金を夢見たのかも知れません。しかしビジネスは短命で戦後まもなく破産を申請することとなりました。そして画壇に戻ります。

のちオイゲン・ブラヒトは頻繁にエジプトやパレスチナ、またシリアを旅し、中東を題材とする風景絵画を描き続けました。そしてオリエンタリズム絵画の第一人者としての名声を確かなものとします。1882年にはベルリン芸術アカデミーの風景画担当の教授に就任しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もオイゲン・ブラヒトの中東風景絵画の熱心なファンでありました。のち1901年にはドレスデン美術アカデミーに移り教授を務めます。

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オイゲン・ブラヒトは最初の妻マリア・デューラー(宮廷画家ルートヴィヒ・デューラーの娘)と死別しますが、1895年6月、53歳のときにダルムシュタットの大臣エルンスト・ベッカーの娘トニと再婚しました。結婚の翌年1896年に長男アレキサンダー(Alexander )、さらに1898年56歳のときに次男のヴァルデマール(Waldemar)が誕生します。しかし長男は1916年第一次世界大戦の西部戦線において20歳で戦死、次男も1942年第二次世界大戦において44歳で戦死しました。

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晩年のオイゲン・ブラヒトは煙突のある製鉄所や工場などの産業風景画を好んで描きました。1912年ヘッセン大公国芸術科学賞金章を受章。1919年に教職を引退し、ダルムシュタットのマティルデンヘーエに建設された芸術家向けの街「芸術コロニー」で過ごしました。ドイツを代表するアール・ヌーボー画家ハンス・クリスティアンゼン(Hans Christiansen)から「バラの別荘(Villa in Rosen)」を購入し、大規模な改修を施して居住しそこで亡くなりました。オイゲン・ブラヒトの墓地もダルムシュタットにあります(Waldfriedhof Darmstadt L 3b 3)。

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