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【百年ニュース】1921(大正10)4月2日(土) 統計学者の花房直三郎が死去,享年63。1857(安政4)岡山藩士花房端連の三男として誕生。第二次伊藤博文内閣の総理大臣秘書官,のち内閣統計局長。

内閣官僚で統計学者でもあった花房直三郎が死去しました。享年は63歳でした。1857(安政4)年に岡山藩士の花房端連まさつらの三男として誕生。父の端連まさつらは明治期には第二十二銀行や岡山紡績会社を設立した実業家として著名で、初代の岡山市長にもなった人物です。

端連まさつらの長男で、直三郎の兄になる花房義質よしもとは明治・対初期に活躍した外交官です。特に初代駐李朝(朝鮮)公使として有名です。壬午事変では暴徒に包囲され公使館脱出し、命からがら帰国。済物浦条約につながりました。のち義質よしもとは農商務次官、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任しました。1896(明治29)年に男爵、1911(明治44)年に子爵。目黒の城南五山、花房山義質よしもとの別邸があったことが地名の由来です。

さて端連まさつらの三男、直三郎は岡山から東京に出るとドイツ語を学び太政官御用掛となりますが、兄の義質よしもとと同じ外務省へ転じます。明治期の日本で活躍したドイツ人法学者・経済学者のヘルマン・ロエスレル(Karl Friedrich Hermann Roesler)の通訳を務めるとともに、ドイツ式の統計学を学び取りました。

1888(明治21)年に伊藤博文が枢密院議長となると花房直三郎は枢密院書記官に任命され、のち1892(明治25)年に伊藤が第二次内閣を組閣すると総理大臣秘書官となって支えました。1898(明治31)年に内閣統計局が設置されると初代局長となり活躍。1920(大正9)年の日本初の国勢調査においては、国勢院参与として参画しました。

死後には膨大な蔵書が残されましたが、1926(大正15)年と1927(昭和2)年の二回に分けて、遺族より蔵書が早稲田大学に寄贈されました。 日本国内や海外の統計学書や、各種の官庁統計資料など1,399部(4,248冊)、そのうち洋書は286部(603冊)が、現在でも早稲田大学中央図書館に花房文庫として所蔵されています。

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花房直三郎

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